藤野の散文-私の暗黙知-

毎日の中での気付きについて書いています

規則の誤謬

*[ウェブ進化論]ノールールというルール。

先日友人と学生時代の話をしていて「(高校の)校則違反だった茶色の靴を履く生徒が多い事実を調査して、校則の方を茶色okに変えた」という逸話を聞いて驚いた。

「校則」というこの二文字だけでもうそれは学生を縛り、時には対立する存在である、という先入観が自分にはあるからだ。

「校則って秩序を守るためにあって、校内が整備されていいな」というような発想など微塵もなかった。(大体はそうだと思うが)

それにしても男女交際禁止とか(同性はどうよ)、髪型がどうとか思えば戦前からの文化もあって長らく定められてきたローカルルールもずい分緩くなってきていると思う。

 

多分法律や規制がなくても、自分たちは「そこそこの調和」を持って生活していく生き物だと思うのだが、タガをはめられると途端に息苦しくなるのはどういう心理抵抗なのだろうか。

自分の場合は過ごした高校生活が「ミニ少年院」みたいな所だったので(いわゆる丸ボウズ系)、どうにもあれから"ルールの類"が例外なく嫌いになってしまった。

 

社会人になってからも、まだ当時はサラリーマンの下らぬ慣習が残っていて「新人は朝掃除に来て先輩より遅く帰れ」とか「日報と月報の鬼」みたいな管理職の人を見て、非常に拒否感を感じたことを思い出す。

 

ルール無用が一番ではないだろうか。

神的視座

*[ウェブ進化論]宇宙目線。

天文学の話を聞いているとあまりに壮大すぎて、自分の存在を忘れそうになることが多いけれど、今ほど汲々と時間や効率を気にして過ごす時代には、ちょっとわざと「そういう話」を頭の中に広げるようなことをしてはどうだろうか。

 

それにしてもハッブルvsジェームズウェッブ望遠鏡が「銀河が銀河を映す」という方法で太古の(134億光年)星を探す、冒頭の部分を見るだけで自分の悩みなどは霞んでしまうような気分になる。

 

実際は「自分の生きる100年足らずの中でどんな過ごし方をするのか」ということと宇宙で起きていることは、案外同じようなことなのではないか? とも思えてくるけれど、そんな気分を味わうためにも天体のお話は悪くない。

たまには大局を意識しましょう。

 

それにしても科学は進化すればするほどさらに広がる。

それってまるで宇宙のような話ではないだろうか。

私のアミダくじ(2)

*[ウェブ進化論]くじの行先。

自分のこれまでの軌跡を「アミダくじ」に擬(なぞら)えると、あまりにも横のハシゴの数が多すぎて、良くも悪くも「まあ今の着地点にたどり着いたものだワイ」と感心してしまう。

人との出会いとか、よく理屈の分かっていないことへの決断の連続ばかりで今に至るわけだから、例えハシゴが「一本抜けていただけ」で今の自分とは全く違う場所に立っていただろうことは割と簡単に想像できる。

 

そういう意味では無茶な選択もしたし、無謀な買い物をしたし、無駄な時間の使い方もした。

あえて「人生のハシゴを付け足したい」とは思わないけれど、かなり再現性のない生き方をしてきたものだと思う。

むしろ、これまでのいろんな偶然には感謝する必要があるだろう。

過去の話に「たられば」はないというのは分かっているが、過去に自分がした選択で「ミスればどんどんドロップアウトしていく姿」はあらゆる所に思い当たる。

それはともかく。

 

そんな「偶然に次ぐ偶然」が今の自分なのだから、これからの我が身についてはどうなのだろうかと想像する。

これまでを見て、これからを考えると「突拍子もない決断」というのはなさそうである。

けれど中小の、何か新しいことへのチャレンジは続けそうだ。

 

問題は賞味期限はそれほど残っていないという点にある。

長めに見ても20年程度しか残っていない中で、選択の機会はそれほど多くないだろう。

 

少しは「自分の選択肢」を作っていきたいと思っている。

私のアミダくじ(1)

*[ウェブ進化論]当たり前ではないこと。

60歳になるまでは、あまり自分のたどってきた軌跡について考えたことなどなかったけれど、「これから先」のことをいよいよ考えるようになり、「これまでとこれから」についての因果関係などを回想している。

それはともかく。

自分が生まれた「生命の誕生がそもそも奇跡的である」という話もともかく。

 

自分なりには紆余曲折しながら今に至るわけだけれど、これを逆から見てみると、つまり「自分が生まれた時点から、今に至るまでのアミダくじである」という風に考えてみた。

生まれた国が違えば事情はまったく違うだろうし、日本だとしても都会か田舎かではずい分環境が違うだろう。

義務教育くらいまでは「自分では選べないこと」だって非常に多い。

(今の若者は親ガチャなどと上手いことをいうものだ)

自分で進学するとか就職するとかしないとか。

いろんな出来事すべてが"行き当たりばったりだった"と表現するしかないが、それにしても「ため息が出るほどの偶然が今の自分を作っている」と言うことは間違いなさそうだ。

同じ道をもう一度たどって見られるか? と問われると「決して同じにならないと思う」と答えざるを得ないと思う。

 

そんな「偶然に次ぐ偶然」が今の自分の成れの果て、ならばこれからはどうなるのだろうかと考える。

(つづく)

一日であれ一年であれ

*[7つの習慣]改めて、習慣を作る。

毎年この時期になると、まとまった休みを目の前にして「さあ今年は何にしようか」と考える。

そんなことを恐らく社会人になってからずっと繰り返している。(嘆)

さらに言えば、そういう「覚悟」は普段の週末の休みとか、あるいは一日の仕事が終わった後の自分の時間についても同じことだ。

 

つまり「どんな単位であれ、まとまった時間をうまく使う」というのはなかなかに難しいことなのだろう。

「毎日の寝る前の30分は必ず読書に充てる」とか「今週末は必ず新しい仕事について考える」ということと、「何となく遅寝をする」とか「だらだらネットする」ということは相反する行動なのだ。

 

そういうことを「いちいち悩まずに行動できるのが習慣化なのだ」ということにも改めて気づく。

何もキチキチと「自分の自由時間の使い方を計画して管理すること」が目的ではないが、やりたいことを実現していくには、そのくらい時間管理の方法というのは重要なものだと思う。

 

夏休みの宿題よろしく、特に今のネット社会では外部の刺激を遮断することというのはかなり難しい。

大切な連絡だってその中には混ざっているのだから。

なのでネットを遮断するまでもなく「先に立って動ける習慣」を作ることが、かなり大事なことなのではないかと思う。

 

今一度習慣を作りましょう。

 

視点次第

*[ウェブ進化論]見えている自分とこれからの自分。

60歳の自分が2-30代の人と話をしていると、時に「ああこれから色んな苦労をするのだろうな」と思えてしまうことがある。

年の功というやつかもしれないが、若者にとっては大きなお世話ということかもしれない。

そんな「世代間の印象風景」といったものは、これまでもずっとあっただろうし、これからも続いていくのに違いない。

それはともかく。

 

「60歳の自分を70歳、80歳の自分が見たらどう思うのか」というのは十分"想像に値する話題"なのかな、と思ったのだ。

何なら他人である年上の先輩に「今の自分はどう見えますか」と聞くのでも構わないが。

けれど「20年後の自分が見た今の自分」はよほど切実ではないかと思うのだ。

 

今の自分は「これからの自分の中では一番若い」。

けれど「これまでの自分の中では一番の年寄り」でもある。

過去の自分を触ることはできないが、これからの自分はある意味自由でしかない。

 

80歳の自分が今の自分を見たら、果たして何というだろうか。

どうせ「経験値でしか学んでいけない」と何も言わないかもしれない。

けれど20年若い自分を見たら「まだ比較的若く、これからの選択肢もたくさんある60歳」に見えるのではないかと思う。

決して「もう終わりだね」とは言わない気がするのだ。

 

つい「これまでの人生で最長老の自分」のことばかりを考えてしまうけれど、どうしたって今が一番若い、というのが自分たちでもある。

 

ぜひ、これからのことを考えましまょう。

糖質制限サスティナブル(2)

*[健康]毎日心がけること。

糖質を控えた食生活にすることは、かなりの「生活習慣病の予防になる」と思う。

それに定期的な運動+筋トレを加えれば、かなりの年まで思い通りに過ごせる可能性がありそうだ。

けれどそういうことを実践するのは「軽い修行」のようなもので、小さな注意点が日々の生活に必要になる。

 

昨日も書いたけれど、タンパク質と脂質だけで「一度糖質の旨味を知った脳」を誤魔化すのはとても難しい。

無塩ナッツとかサラダチキンでは脳は騙されないのである。

 

ところがやってみると実感するが、少し気が緩んで味の濃いラーメンなどを食べてしまうと「血糖値のスパイク感」はすごいものがある。

そのせいで体調も数日おかしくなることすらある。

 

料理をしない自分がたどり着いた結論は「糖質の少ない副菜を少しづつ摂る」という方法だ。

スーパーなどで買えるお惣菜の中で、煮物とか根菜類のサラダとか、最近はかなりの種類の副菜が揃っている。

この分野はいろんなチェーンやコンビニも開発を頑張っているようで、飽きない商品が次々に発売されているのは有難いことだ。

 

ガマンにガマンを重ねるのではなく、毎日に「少しづつガス抜きをする」ような感覚で食事をすれば、欲望が押し寄せることなく日常を過ごせる。

 

当たり前のことのようだが、長きの継続のためにはとても重要なコツだと思っている。

 

糖質制限サスティナブル(1)

*[健康]継続のコツ。

興味のない方には申し訳ない話題だが、自分はますます「老いとの戦いは糖質との戦いである」と思うようになった。

まだ穿刺しないで血糖値を測るのは難しいけれど、糖質量を気にすることでかなりコントロールできる。

病気に悩む先輩たちを見ていても、糖質との関係が深いと思うケースは非常に多い。

糖分というのは、ある意味習慣性の強い"麻薬的なもの"なのだ。

 

そして他人と生活していると、そんな麻薬を摂取する機会はどうしてもある。

で「糖分の蜜の味」を一旦知ってしまうとなかなか元に戻りづらいのである。

まさに禁断症状との戦いになるのだ。

 

もちろん糖質は世の中では規制されていないから、そこら中で提供されている。

「糖分+脂分+塩分+香辛料+調味料、そして+お酒」なんてことになると、これはもう制御不能である。

 

なので「いかに破綻を招かないか」という対策が重要だ。

自分は「タンパク質中心の食事の後に"ごくごく軽い副菜を摂る"ということを実践している。

 

試してみると分かるがもつ焼きとか焼き鳥とか、タンパク質中心の食事の後。

糖質を欲している脳に対し、さらに「サラダチキン」とか「ナッツ」などを食べるのは胃にかなりの負担がかかる。

 

糖質制限をしている仲間をみると、この理由で続かない人はとても多いように思う。

(つづく)

オリジナルの時代

*[ウェブ進化論]自分なりの。

若い人たち、特に身近な家族などを見ていて感じるのは「価値観が明らかに変わり始めている」ということだ。

昭和生まれと平成生まれ、そしてその後のスマホ世代になるともっとハッキリと変化していくと思う。

 

昭和の価値観を引っ張っている自分たちの世代と、モロに昭和な70代と、平成生まれから令和とまるでミルフィーユのように「価値観の層が重なっている」のが今の特徴だ。

価値観の変化の特徴は、ようやく「自分なりの幸せの作り方」を覚え始めていることだろう。

足るを知るとか、自分なりの納得感を得るとか、自己肯定感を高めるとか、いろんな言い方はあるけれど、つまるところ「自分なり」ということがようやく根付き始めているようだ。

 

自分も"経済的なこと"が最優先である、という風潮にどっぷりと浸かってきたけれど「マイナス成長」という世の中を体験してみると「成長とは何か」を改めて考えている人も多い。

「富」とか「成長」とか「勝ち組」という分かりやすい言葉に踊らされて、老年を迎えた人はどれほどいただろうか。

 

自分が幸せを感じるもののことを注意深く観察し、(他人の物差しではなく)自分の幸せ感で人生の選択をしていければ、いずれはハッピーな気分になるだろう。

 

老若男女を問わず、早く気づいた人から変わり始める。

硬化を防ぐ

*[ウェブ進化論]要は姿勢。

「やわらか頭」とか「柔軟性がある」とか「地頭がいい」など、頭については古今東西ずい分といろんな表現がされているが、まだ人類の科学では解き明かされていないらしいだけに尚更興味深い。

 

これから若い人が挑むテーマとしては脳科学とか生命科学、などが面白いのではないだろうか。

量子力学や宇宙物理なども面白そうだが、何より"命"について考えるという一番重要な部分がまだ未知数なのだからやりがいもあると思う。

 

こういうのが「迷ったら苦しい方に行け」ということだろう。

それはともかく。

 

日常の生活をしている自分たちでも「柔軟な人」と「頑固者」と言われる人がいる。

そしてそれらはあまり年齢に関係がないことも多い。

若いのに「頭の硬いやつ」というのはどこにでもいる。

もちろん頑固ジジイというのはいつの時代にもいるものだし。

 

こうした分類の決め手は「柔軟性」とか「許容力」のことだろう。

例えば「反対する者の意見」をどれだけ受け入れられるか、とか「異分子に対してどれだけ理解を示せるか」とか言うことだ。

 

なぜ頑固になるのか、というと「自分の体験とか思い込みのショートカット」が影響していることが多い。

つまり「ハナから結果など分かっている」という過去の経験が、思考の自由を完全に妨げてしまうのだと思う。

 

年齢にかかわらず「反対意見にどう対するか」ということは、ゆくゆく心して肝に銘じないと、ただの頑固者になってしまう

 

それでは悔しい。

 

 

言わぬが利益

*[ウェブ進化論]彼らの退蔵益。

プリペイドカードのように「前払い」でに入れておいて、実際にはなかなか使われないもののことを「退蔵益」という。

もう昔話でしかないが、デジタル回線の普及に伴い「公衆電話」が一気に普及し、こんな便利なものはない、と狂気してテレホンカードを何枚も財布に入れていたのを思い出す。(遠い目)

LINEがある今の時代にコレクトコールってまだあるのだろうか。

それはともかく。

 

家族に渡したポケットルーターとか、小指の爪ほどの大きさのSIMMカードとか。

3G,4Gで契約していたものは、フリーSIMMなどと違って月に5-6千円はしていたと思う。

スマホ前世の時代だから、会社で契約してスタッフに配ったりもするし予備のスマホを用意している会社も多いだろう。

それもともかく。

 

先日、画面のセンサーの故障で、長らく放置していたタブレットが4G契約であることを思い出した。

友人に「ずっと固定費かかってるよ」と言われてショップを訪ねて驚いた。

「9年ほどの契約ですが、まる4年ほどお使いではないですね」とのこと。

おまけに「今月の6602円が未払いです」と。

 

×4年で"316896円"なり。

もったいな!!!

毎月「一回分の居酒屋」を捨てていたことになるではないの。

「長い間ご利用有難うございました」という前に、「新しい割引プランが出ました」という前に、「最近お使いではないですね」と声かけする気遣いはなかったのか、と聞く気力もなく未払い分を支払ってトボトボと退店。

 

彼らは何にも知らせてくれないから、自分の契約は時に整理してみるという防衛行動が必要だ。

 

ペーパーレスはいつに(2)

*[ウェブ進化論]ニュービジネスを2つ。チラシ回収業とデジタルタトゥー業。

ペーパレス よりは進んでいるようなキャッシュレスも、どうにも徹底はできないようだ。

せっかくの最新レジが備わっているのに「公共料金は現金で」とか「ここはナナコしか使えません」とか「ポンタが楽天ポイントがどうこう」というのも煩わしい。

 

マーケティングの手法は今や「デジタル対アナログ」のガチ対決になっているし、いちいちDMが届くたびにそのまま(住所氏名を切り取って)ゴミ箱へ直行しているチラシたちは本当にもったいないと思う。

(チラシの回収ビジネスってできたら大流行すると思うのだが)

 

なので新しいチラシが届くたびに「すみません、もう二度と送らないでください」と電話で連絡をするのは相当虚しい作業だ。(あと自転車の修理します、とかクーラーの掃除をします、という大量のポスティングもしつこく入ってくる。ヨガ教室のチラシなんて採算は取れているのだろうか)

 

特に紙媒体を喜ぶ世代はまだアッパー60代には多いから、このままいくとあと30年くらいはDMとの格闘は続くと思っていた方がいいのかもしれない。

 

とはいっても無理もないなぁと思うのは「遺したいもの」のことだ。

紙とか本は、やはり物理的にそこにあるので、なかなかなくならない。

一方デジタルデータは数十年単位で見ると相当怪しい。

クラウドのデータもいつの間にか移行の拍子になくなったり、メールも決して永遠ではない。

 

この「遺したいという動機」が紙が駆逐されない最大の理由ではないだろうか。

なので

デジタルで「これは絶対なくなりません」というサービスをしたら、これまたバカ受けしそうな気がするのだが。

 

 

ペーパーレスはいつに(1)

*[ウェブ進化論]

ペーパーレスがグッと進むかと思いきや、ネットが行き渡ってもう20年になるが一向にその傾向がない。

それはともかく。

 

ITの普及のおかげだろう、個人情報がどんどん貴重になり、今自分が住んでいるマンションは表札を出している人は一人もいないし、先日はmailbox脇のゴミ箱も「個人情報保護のために撤去します」となってしまった。

(それにしてもしばらく設置されていたゴミ箱のゴミ投棄量はものすごく、いつみても入れ口からDMがはみ出していてなかなかに見苦しかったが)

 

先日、実家に帰っていたら戸建てに住む父親が「ゴミに出すものに名前が露出しているのはけしからん」と懸命に切り取っていたから、

日本中で郵便物の処分に心を煩わしている人はもの凄い数なのではないかと思う。(自分もそう)

 

「住所氏名の印字を消すスタンプ」もあったが、あれ完全には消えないんですよね。

やはり「マメに切り取って分別してから、裁断して別のゴミとして処分する」というしか今のところはなさそうだ。

 

ネットの便利さはさらに拡大し、一方では「デジタルマーケティングこそこれからの常識!」とはいうものの、現実には「電子メールvsダイレクトメール」の対マンになっている。

サブスクやサンプル請求などで、一度住所を知らせてしまえばそこからは「メール&郵便」のダブル攻撃が始まってしまう。

 

そしてその郵便物は自分で個人情報をチマチマと切り取らねばならない。(嘆)

(つづく)

 

ようやくの自由化

*[ウェブ進化論]労働も変わり目。

どうして働く人がこうも減ってしまったのか、と人材紹介の仕事をしていて思う。

割とな単純労働に従事していた人たちは今どうしているのだろうか。

まだコロナ対策の給付金の効力もあるのかなとも思うけれど。

 

日本の働く人の人口構成は間違いなく流動化しつつあると思う。

つまり"ガラパゴス・ニッポン"も、ようやく学歴とか外国人とかいうことに関係のない柔軟性が見え始めているのを感じている。

企業がポテンシャルとか、未経験者とかいう「ごくフラットな採用意識」になり始めているのを感じる。

これまでは学歴とか年齢とか国籍とかの「見えないバリア」がとてつもなく分厚く、見えない「ガラスの天井」という壁があったのだ。

 

そしてそうなると、次には法律の流動化が必要である。

今のように「ガチガチの解雇規制」とか「組合による労働者保護」をある程度柔軟な合意ルールに変えていく必要がある。

でないと今のように企業側が「ひたすら守りに入るばかり」で、結局は企業の成長につながらないという、ここ50年ほどの悪循環がなくなっていくことを願っている。

 

そういう抜本的な政策を掲げるリーダーは、票読みばかりをする既存政党からは出てこないから、是非とも"若者の党"がたくさん出てきてもらいたいと思う。

 

時代の大きな価値観が動くのって、すごく時間がかかる。

 

 

練習は練習ではない

*[ウェブ進化論]練習の意味。

自分は昔から人前での演奏とかスピーチが得意ではない。

かの大前研一さんですら、プレゼンテーションの前には何度もビデオに撮って改善を重ねた、というから凡人が十分な事前準備をしないのは「だから言わんこっちゃない」という話でしかない。

子供のころはともかく、大人になってからはそんな理屈を知っているからかなり練習するようになったのだが。

けれど今一つ結果が芳しくない、ということに長年疑問を持っていた。

「結構練習したのに今一つ伝わらないな」ということが何十年も続いていたと思う。

 

そして先日、理由が判明した。

駅や空港のストリートピアノ演奏を見ていた時に気づいたのだ。

マチュアとプロの差とでもいうか。

いやアマチュアでも、きちんと「本番としての演奏」ができている人もいることに。

そして恐る恐る自分も演奏してみたのだが、果たして「本番として弾けていない方」だった。

そして気づいたのは「本番の練習をしているかどうか」だということなのだった。

 

自分たちは普段自宅で練習している。

それは、いわば「練習としての練習」である。

「本番をイメージしての練習」ではなかったのだ。

かくして練習は「ただの練習」であり、「本番とは全く別物」になってしまっていたのだ。

 

街中のストリートピアノであれ、自宅であれ、大人数の前の本番であれ「今が本番のメンタリティ」を想定することが近道なのだと今ごろ気づいたのだ。(嘆)

 

自分の中では、目からウロコでした。