リトルフォレスト 冬・春編

まずは夏・秋編のおさらいをしよう。私は夏・秋編について以下のように書いた(http://d.hatena.ne.jp/yahara/20140923)。
「さしたるドラマがあるわけでもないこの映画は、見る人を選ぶだろう。私はと言えば、護岸されていない小川が流れる山村の風景にまず魅了され、・・・そんな山村での暮らしを送る無愛想な主人公いち子(橋本愛)のまだ描かれていないドラマに興味を惹かれ、最初の10分程度ですっかりこの映画の世界に入り込んだ。・・・植物と料理が好きな人には、たまらない映画だ。そしてこの映画は人間ドラマでもあるのだが、今回上映された「夏・秋編」では、伏線しか描かれていない。ヒロインのいち子は、一度は都会に出たものの、恋人と別れ、そしてまだ描かれていない何かから逃げて、生まれ故郷の山村に戻ってきた。・・・母からの手紙が届いたシーンで、「秋編」は終わる。2月に公開される「冬・春編」では、母が山村の家に戻り、そして母の生き方を知ったいち子が、決着をつけるために都会に戻っていくのではないか。」
この予想は、ある程度は当たった。いち子は自分の生き方に決着をつけるために都会に戻った。しかし、都会で何があったかは一切描かれず、山村に戻ってきて神楽を舞うシーンで映画は終わる。いち子の「まだ描かれていないドラマ」は、描かれないままに終わった。いち子の人間ドラマは、料理で言えばパセリのような添え物で、味わうような位置づけにはない。この映画が描いているのは、育てて、収穫して、料理して、食べる。その行為がいかに手間のかかるものであり、そしてその結果得られる味わいがいかに豊かなものか、この一点を、これでもか、これでもかと描いたのがこの映画だ。だからこの映画は見る人を選ぶ。植物と料理が好きな私には、たまらない。
冬編、収穫ができない季節をどう描くのだろうと思っていたら、登場する食材の豊かさに驚かされた。まずは、母とは違った組み合わせを工夫した三色ケーキ。食材は、甘酒とかぼちゃ。かぼちゃは確かに冬に食べられる大事な食材。それに甘酒をあわせるという発想は予想外。続いて、餅つき。わが家でも、毎年石うすでついている。つきたての味は、格別だ。映画で登場したのは、納豆もち。これは、福岡の実家ではやらないが、日光に勤務していたときに知った。つきたての餅に納豆は、すごく合う。日光では納豆に醤油をかけていたが、映画では砂糖醤油をかけていた。なるほど、これは合うかもしれない。今年の餅つきで試してみよう。小学生が餅つきに向けて、納豆づくりをするシーンも描かれていて、勉強になった。藁に包んで発酵させることは知っていたが、なんと雪の下に埋めるんだ。雪の下は温度が安定し、零下には下がらないので、冷蔵庫として使う(野菜を埋めて保存する)ことは知っていたが、なんと発酵用のインキュベータにも使うんだ。続いて、切干大根。映画では「凍み大根」と呼んでいた。雪国らしい、納得のネーミング。ゆがいて戻して、人参などと煮込むとうまい、という描写は、確かにおいしそう。続いて干し柿。これも冬の定番だ。干し柿はそのまま食べてもおいしいが、きざんで酢の物とあわせると、これまたおいしい。ここでも、渋柿を収穫し、皮をむき、つるして干し、ときどき揉んでやわらかく干し上げる手間が描かれる。手間、手間、手間。これを丁寧に描いている点がこの映画の真骨頂。続いて、焼き芋。ああ、幸せだ。このあと、はちみつ入りの玉子焼き、小豆、はっと、チャパティ、わらびと続き、観る方としてはおなかがすいてきた。5時すぎの開演だったので、夕食をとっていなかったのだ。ふと、かばんの中にバレンタイン・チョコがあるのを思い出して、箱を開けて、ほおばった。伊佐美チョコ。うまい。箱に、「伝統の製法でサツマイモと米麹のみを用いて作られた芋焼酎伊佐美をゼリーに閉じ込め、ガナッシュチョコで包み込みました」とある。この映画を見ながら食べるのにぴったりのチョコではないか。あぁ、これで落ち着いて続きが観れる。
思えば、冬をいかに乗り切るかが、温帯に進出した人類の大きな課題だった。縄文時代には、保存食としてどんぐりが重要な役割を果たした。どんぐりの豊凶によって人口が変動したくらいだ。その時代以来、日本人はさまざまな工夫で冬の食材を豊かにして、冬という厳しい季節を乗り切る知恵を蓄えてきた。その知恵を、丁寧に描いたシーンが続いた。ごちそうさまでした。
そして春編。春と言えば、山菜だ。いち子はさっそく、木々が芽吹き始めた沢へ。シラネアオイやクマガイソウが咲き競う、すばらしい沢すじの斜面だ。林の映像に見とれた。紹介された山菜の中で、眼にとまったのは、モミジガサ。映画では、シドケと呼んでいた。私が育った福岡にもあるが、福岡では食べない。ニリンソウも画面に映ったが、こちらは山菜採取の対象にされていなかった。東北では食べるのにな。そして、タラの芽。これは福岡でも食べる、エース級の山菜だ。そして、そして、ふきのとう。ふき味噌を、映画では「ばっけ味噌」と呼んでいた。今朝食べたふき味噌は、うまかったなぁ。私は朝食といえば、ごはんとみそ汁だけで済ますことが多いが、ふき味噌があると、いくらでも食べたくなる。実に食欲をそそる料理だ。続くは、つくし。これも春の定番だ。しかし、はかまをとるのが面倒くさい。その手間を、映画は丁寧に描く。そして、佃煮。福岡では卵とじにする。小さい頃から食べ慣れているせいもあると思うが、卵を加えると味にまろやかさが出て、一段とおいしい。最後に登場したのは、ノビル。これも、エース級の山菜だ。春の七草にノビルが入っていないのは、絶対におかしい。歴史をたどると、万葉の時代には、若菜摘みとしてノビルを摘んでいた。だって、うまいんだもん。古事記にも「いざ児ども 野蒜(ノビル)摘みに 蒜摘みに・・・」という歌がある。しかし、仏教が入ってきてから、香りものは禁忌とされ、ノビルは公式には食べられなくなった(庶民は絶対に食べていたと思う)。1362年頃に書かれた『河海抄(かかいしょう)』が初見とされる「セリ、ナズナごぎょうハハコグサ)、はくべら(ハコベ)、仏座(コオニタビラコ)、すずな(カブ)、すずしろ(ダイコン)、これぞ七種」にノビルが入っていないのは、仏教の影響だと思う。セリはともかく、ナズナハハコグサハコベコオニタビラコは、お世辞にも美味しい山菜とは言い難い。田畑の雑草であり、これらを食べることには、農耕儀礼としての意味があったのだろう。話は脱線したが、映画ではノビルを塩マスと一緒にパスタソースで炒めて、スパゲティを調理していた。ノビルの辛みが効いて、おいしそう。
春が過ぎ、いち子は自分の生き方に決着をつけるために都会に戻っていく。その経緯は、幼馴染のキッコとユウ太の会話で描かれ、そして次のシーンでは、いち子はもう村に戻っていた。何にどう決着をつけたのかは描かれていない。そして、神楽を舞う。それは、これからこの村で生きていくのだという決意の舞いだ。都会の便利な暮らしには捨てがたい魅力があり、誰でもいち子のような生き方ができるわけではない。その必要もない。しかし、私たちが自然の恵みに生かされており、そして厳しい自然とたたかいながらも、土を耕し、種を捲き、苗を育て、成長を見守り、収穫をして、私たちに食材を届けてくれる人たちのおかげで生かされているという事実を、忘れてはいけない。せめて、ひとつひとつの食材を生み出した自然と人間のことをときどき思い出し、ごちそうをいただきたい。