平日の記録



先日オープンしたロクシタン新宿店のカフェで休憩。店舗限定メニューは「クリームブリュレ盛り合わせ」だけど同じのばかりは苦手だから、人気のスイーツを一度に食べられるプレートを注文。手前からショコラのブリュレ、ガトーマルシェ、定番のブリュレロクシタン、赤い果実のタルト。私にはどれも少々くどいかな。
京橋のデンマーク・ザ・ロイヤルカフェテラスでは、前回食べられなかったデンマーク風パンケーキ「エブルスキーヴァ」。たこ焼きみたいな形のパンケーキ数個にカスタードクリームとフルーツ、全部あったかい。食べやすいし美味しいし満足。

ウィ・アー・ザ・ベスト!



東京国際映画祭にて、これだけはどうしても見たかった。最高だった、上映中ずっと胸がどきどきして、そのままどこまでも飛んでってしまいそうだった。



「みんながうるさくするなら、私だってうるさくする!」


上映後のティーチインにて、ルーカス・ムーディソン(監督・脚本)とココ・ムーディソン(原作)が、客席からの「あれはどういう意味ですか?」というような質問の多くに首をひねりつつ「I don't know」と笑っていたのが印象的。「論理的にどうというんじゃなく、こうしたら楽しいだろうと思って作ってる」「ストーリーは大きな一つの流れというより小さな事の積み重ね、現実の人生もそうだから」「キャスティングに最も力を入れている、決まったら後は本人達に任せてしまう」「三人と一緒に居る気持ちになってほしい」。
冒頭、女の子達が可愛くて頬っぺたをむにゅっとしたくなるのが、次第にそんな気持ちは消える。心があまりに沿うから。怪我した手を洗う時や髪を切られる時など、大した場面でもないのにびくっとする。


原作者ココにあたるのが、眼鏡に「中途半端な髪の毛」のボボ。ママが「失恋」してベッドに潜り込んでると「ごはん食べなきゃ元気が出ないよ」とそっと手を握る(このシーン、とてもよかった!でもママときたら電話を持ってこさせて友達にグチる・笑)。仲良しのクラーラにベースも男も取られると、自分の体を抱えて「すごく寒い」とだけ口にする。
モヒカンのクラーラは要領がいい。青少年センターの貸スタジオから聞こえるバンド練習の音量にたまりかね「『みんな』うるさいって言ってるよ」。好きな曲のカバーを提案するもクリスチャンのヘドウィグがタイトルからして反対すると「『神を吊るせ』なんて存在を信じてなきゃ言わないよ、クリスチャンの曲だよ」。
二人が「友達になってあげた」ヘドウィグはクラシックギターの名手。野次られようと毎年一人で学祭の舞台に上がる。バンドに入ってからは、ボボとクラーラや大人達が演奏中にあれこれ話そうと意に介さず、必ず一曲弾き通す。
監督が「本人任せ」と言ってたのでなるほどそのためかと思ったんだけど、三人のキャラクターにはそれぞれとても「一貫性」がある。優しさ、はしっこさ、強さなど。でも、それぞれの性分はあれど皆ほどよくバカ、ほどよく自分勝手。そして13歳。クラーラいわく「兄貴に惚れるなんてやめときなよ、16だよ」。16にはまだまだ遠い。


もともとバンドを組んでるお話だと思ってたから、「バンド」に目覚めることから始まるのが楽しかった。「みんながうるさくするなら、私だってうるさくする!」。「みんな」ってのは「世界」ってこと。無人島でパンクロックなんてやらないよね、きっと。ロックって「世界」に物申すものなんだ。だから人生が、毎日がまずあって、歌が生まれる。
ボボが自宅で「ロック」を聴くのは、オープニングのママの誕生日パーティーの喧騒から自室に逃れた時と、3対2であぶれたデートから帰って鏡の中の自分に唾を吐いた後。家で一人だからって大音量で音楽を流すわけではない。ベッドの中でヘッドフォンをして目を閉じる姿に、ロックが彼女を守ってくれてるのを感じて胸がいっぱいになる。
彼女の心情を映して、作中一瞬、本当に無音になる場面の切ないこと。男相手のセリフが「ただの郊外じゃん」から「きれいな眺めだね」に変わったクラーラが彼と先に消えちゃって、一人ぼっちの屋上。これに限らずどの場面も、「よくありそうなこと」ながら「唯一のこと」に感じられてすごく新鮮。それも「本人任せ」だからかもしれない。


「女の子」であるがゆえの苦難が「自然」に描かれてるのもすごい。そういう問題って、フィクションにおいては大抵エピソードの一つ等に「分離」されて扱われるものだけど、「現実」においては、布に織り込まれてる糸のように、一日一秒の生活と「分かちがたい」ものだから。スタジオのおっさん達が、彼女達をののしる地元バンドの面々を「大人になれ」とたしなめてたその口で悪気無く「ガールズバンド」を連発する場面なんて、「苦笑」じゃ終われない不穏さがある。
学校で「(「ブス」ってことの皮肉として)お前たちには欲情させられるぜ」とからかわれるくだりには、私のような「大人」の場合、この言葉の「二重の卑怯さ」に腹が立つ、すなわち「欲情されない」のが非とされるってことにまずむかつくものだけど、その後にスタジオに入ったクラーラはマイクに向かって開口一番「私達は世界一かわいい!」。この「13歳」のリアルさに胸が痛くなる。
彼女達に「女らしさ」を苛めの形で強いるのは男女問わず「子ども」ばかり。大人は自らに欠点を抱えていようと子どもに何かを強いることはしないものだなんて、「現実」はそうじゃないだろうけど、見ていて心救われた。


監督の言う通り全編に渡って「小さなことの積み重ね」だからクライマックスというようなものは無いけど、ラストの一幕は「体育館」でのコンサートと帰りのバスの車中。「お行儀よくgirlsの演奏を聴くように」なんて大人達と「共産主義のメス豚」と野次る少年達に囲まれ、「この町は最低」と歌詞を変えて歌う彼女達、そして心からの「ウィー・アー・ザ・ベスト!」。この会場で、いや世界中でそう思ってるのは彼女達だけだろうけど、そんなことどうだっていい。
初対面時には彼女達のことをメス豚呼ばわりしていた地元のバンドの面々が、突如連帯感あふれる目つきで遠くから見てくるのがいい。別に彼らにいいところがあるわけじゃない、仲良くなるわけじゃない。「自分」と「世界」のどちらも結構適当。そこに痺れる。そんな中で、明日からもまたなんとかやっていかなきゃならない。