週末の記録


土曜日はTOHOシネマズ六本木ヒルズにて、来日に向けて再上映された「ポール・マッカートニー&ウイングス ロックショウ」。


ロックショウDVD【日本語字幕付き】

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1976年の「ウイングス・オーヴァー・アメリカ」ツアーの模様をシアトル公演を中心に収めた記録映画。ウイングスって音しか知らず、映像をちゃんと見るのは初めて。ポールがあんなに歌がうまかったなんて!
始め(ウイングスの映像に慣れないから?)雑然として見えたのが、ピンクやラメでちゃんと衣装を揃えてることに気付いて楽しくなる。しゃぼん玉に始まりスモーク、レーザー、電飾など、当時のステージってこういうふうだったのかと面白く見る。そうした舞台効果にメンバーの動きが映えて、二時間全く飽きず。シメはポールの雄叫び「Oh yeah!」。見終わって、同居人は「ポールってほんとにビートルズが好きだったんだなあ」としみじみしていた。


新宿に戻り、サントリーラウンジ イーグルへ。目の前で作ってもらった季節限定のざくろのカクテル、とても美味しかった。


日曜日は同居人の「カミカツを食べよう」との提案で、数寄屋橋のニュートーキョー本店へ。クリスタルヴァイツェンとカシスのビヤカクテルで乾杯。カミカツってほんとに平らなんだから楽しい。


新宿に戻ってピカデリーにて「清須会議」。
どれどれ名古屋出身の私が方言チェックしたるか!と出向いたら、名古屋弁以外に見どころがなかった。なんだか紙や竹で編んである鍋敷きの使い古されたやつみたい。女性二人のみ辛気くさいオチが付け加えられてるのも、政治にああいうふうにしか加われない女の悲哀のアピールというより単なる「趣味」みたいに感じられて、更に気分が下がった。「事実」はあるにせよ、だからこそ楽しく見たいじゃん。
例えば勝家の足が障子を突き破る艶笑シーンがあるんだけど、最後にお市が分かっちゃいたけどそこまで…という心中を告白すると、先の場面を見た時の気持ちが塗り換わってしまう。そういうところが却って面白いというわけでもなく、単に雑然と色々な要素が組み合わさってるという感じを受けた。テレビのお正月特番なら、楽しく見るんだけども。

THE ICEMAN 氷の処刑人



20年間家族に黙って殺し屋稼業を続けていたリチャード・ククリンスキーの実話を元に制作。


プロローグの後、「ククリンスキー」を演じるマイケル・シャノンが広い背中から登場する(どうしたって観たばかりの「恋するリベラーチェ」を思い出してしまう・笑)。カフェのテーブルの向かいには、目の前の男のことを憎からず思っている様子で胸の十字架をいじるウィノナ・ライダー。彼女に現在の仕事について、ポルノをディズニーと嘘を付き「どの映画が好き?」と聞かれて「シンデレラ」と即答するのは、実際に好きなのか、前もって考えてあるのか、単に嘘を付くのが上手いのか。
「悪運を信じない」ククリンスキーは彼女と(不吉とされる)「水で乾杯」をする。後に彼が、命乞いするある人物に対し「時間をやるから神にすがってみろよ/お前が祈ったところで俺には何の影響もない」と言う場面で、このことを思い出す。ククリンスキーに権力志向は無いが、「自分」が何者にも(勿論、神にも!)侵されないということに対する志向、がある。それを遊び半分で「確認」しているのだ。


「物語」というより、マイケル・シャノンがひたすら「ある人物」を演じているという感じを受けた。シャノンは(あるいは誰でも?)「狂気」が前面に出ている時より、そういう人物が他の時にはどうしているか、という演技をしている時の方が魅力的だと思う。だから印象的なのは例えば、第一子が生まれた際、看護師の女性に「congratulations, dear father!」と声を掛けられるも返事ばかりか顔をそちらに向けることもしない場面。「この世で唯一、意味のある人々」以外に「興味」が無いという「狂気」が感じられる。
主人公の人となりの描写に重きが置かれているから、彼が「居ない」場面でレイ・リオッタクリス・エヴァンスら豪華キャストがいいところを見せても、映画においては浮いてる気がして、これは何なんだ?と思ってしまう。それでも灯りに照らされた横顔から登場するレイ・リオッタの、弱味が現れる場面ではそのだらしない腹が、クリス・エヴァンスの、何事にも動じない肝っ玉が現れる場面ではその隆々とした二の腕が初めて目に入り、こういう見せ方いいなあと思う。デートの後に車に乗り込むウィノナの(なんて「無垢」そうな!)脚、シャワーを浴びるシャノンののっぺりした上半身もよかった。


ウィノナ・ライダー演じる妻のデボラは、4DK住宅のチラシを夫の帰宅前に机に置いておくような女。その後「ニュースで副大統領の家が売りに出てるって」「見に行くか?」と笑い合う二人の姿が本当に幸せそうで、胸がいっぱいになった。互いが互いに抱いている「愛」そのものじゃなく、それらが合わさった時の高揚感にぐっときた。セックスシーンにおいては、私の先入観かもしれないけど、ごく「普通」の描写ながら、愛や欲よりも夫の「執着」ばかりを感じてしまった。
宣伝文句にあるように「家族を愛し」ているように私の目には見えず、全てを律したい彼ととろくさい妻とが「合って」たんだろうなと思う。デボラがいわゆるママ友に「彼、失業したんじゃないの?夫の失業は妻の問題でもあるのよ」と言われる場面があるんだけど、そんな「当たり前」のことが会話に上るなんて、当時はそんな時代だったのだろうか、単にデボラがそういう女性だったのだろうか、それとも「分かって」いながら目をつぶっていたのだろうか。その後の自宅での一幕を見るに、おそらく諦めがあったのだろうと思う。