御乱心特別落語会



開口一番(三遊亭あおもり)
三遊亭わん丈「わん丈版御乱心(?)」
夢月亭清麿「バスドライバー」
川柳川柳「ガーコン」
 (中入)
三遊亭円丈「御乱心にもなかった御乱心」
トーク(川柳&円丈)
 (4/21・お江戸日本橋亭


とてもよかった、日本橋から走って帰れそうなほど元気が出た。「御乱心」はそりゃあ面白いけれど、「裏話」が聞きたいわけじゃない、好きな人の話が面白く、人となりを感じられたからよかった。


入場すると適当な席が後方以外は最前列のど真ん中しか無い。近すぎたかと思いきや、冒頭清麿・川柳・円丈が揃っての表情を間近で見て、ここに陣取ってよかったとつくづく思う。円丈はこの日は「御乱心」を書いた理由を「当時は大企業の秘書が秘密を抱えて自殺する事件がたくさん起きており、死んだらだめじゃないか、言っておかないとと思って」と言っていた。


あおもり、わん丈はこの日も面白かった。後者は「自分の時だけスマホで検索しながら聞いてもいい」と、「御乱心」を読んだ際に心に残った二つの言葉を活かしたパロディを。師匠への愛にもあふれており最高。清麿はジァン・ジァン時代に作った噺をと、私は初めて聞いた作品を。川柳はガーコンの(後の清麿によれば)ジャズ要素強めバージョン。至近距離で見たのは初めてで、新鮮だった(笑)


清麿が「わん丈くんにこれ他のどこかでもやる?と聞いたらやれませんだって。新作ってそういうところがある」と言っていたけれど、「御乱心」に歌麿(清麿)は常に適切とあったように、確かにそうだよね、それこそ「笑点」と真逆にあるんだよね、新作って(清麿はこれを「一期一会」と表現)。


円丈が「書くことは書いてしまったから、考えたらもう話すことは無かった」というようなことを言っていた通り(そら見たことか!と思う私・笑)、中入後の一席は本の内容を当人の口から聞くのを前菜に、「悲しみの大須」の一番の要素をメイン料理として出してくれたようなものだった。カンペ台に足を乗せるという新しい仕草も(どういう場面かは伏せる・笑)

ロンドン、人生はじめます



映画の始めからいつものように美しいダイアン・キートンが、女達の「議会」に入るや精細を失う。他の女達が凄いというんじゃない、彼女が今の状況に甘んじて生きていることがここで露呈するのだ。思えばオープニング、雨音に起きた彼女はラジオの政治の話題(住宅事情に関する討論)にも他人事であった。


立ち退きものとしてはひねりがあり面白かった。エミリー(ダイアン・キートン)もドナルド(ブレンダン・グリーソン)も「Hampstead(原題)」ではよそ者で、「スキルがなく」仕事をしておらず、内心そのことに負い目を感じている。彼らは家を持っているのではなく家に支配されており、二人が「結ばれる」のは互いの家ではない場所である。


その屋根裏部屋でドナルドが「このマンションは君の住みかのようじゃない」と言った後、日の差し込むキッチンで料理するエミリーのところに息子が訪ねてくる場面で、彼女が自分を捧げてきた対象、あるいは理由が分かりじんとした。ただし息子自身は育った家にもう心を残してはいない。演じるジェームズ・ノートンの屈託の無さが映画を一段引き上げている。


コーヒーやジョークが好きな「物珍しがられるアメリカ人」のエミリーに対するのが、同じマンションに住むフィオナ(レスリー・マンヴィル)である。彼女の家の時計の針の音は時の流れを容赦なく告げているのだと分かる中、マンションが女達の牢獄だったとはっきり示される場面がいい。わだかまりは溶けないが、勇気ある女はもう一方の女に笑顔を残して去る。


「きれいなものしか見ないように」生きてきたドナルドの小屋もまた、一種の牢獄であった。面白いのは「小屋は移動できる」から、それだけ持ってよそへ行くことが出来るという点である。エミリーの「また同じ口論を繰り返すの?」のセリフと笑顔のラストシーンに、そんな間柄もありかなと思わせる。まずは自分の意思による家を持つこと、そうしたら、同じ家に住まなくとも、バスに乗った時には互いに持たれ合うこともできるというものだ。