週末の記録



同居人がざくろのジャムを作った。大変な手間の割には美味しさも量も少ないと嘆いていたけれど、きれいだし酸っぱさが悪くない。コメダのシロコッペで買った、いわば素コッペに塗って朝ごはん。
当のコメダでの休憩時には「大人ノワール」。デニッシュパンに染みこませてあるエスプレッソ風味のコーヒーシロップとやらがすごく甘くて、とにかく甘かった。


韓国映画を見るようになった同居人が「『あの麺』は何だろう」と言うので、韓国広場でインスタントのチャジャン麺らしきものを買って作ってみた。具(パプリカ、なす、白菜など)がうち風だから面影は無いけど(笑)美味しくできた。
もう一品は作ってもらったすき焼きふう煮物、ごぼうとれんこんと青唐辛子が入っており食べごたえがあった。

僕の帰る場所



ポレポレ東中野にて公開初日に観賞。上映後にトークイベントがあり、短い時間ながら、監督は監督の、役者は役者の立場から話をしてくれたのが面白かった。制作の方によれば、本作はシステムから全く外れた自由な映画だとのこと。


「日本で難民申請中の外国人一家」の話は読み聞き、あるいはドキュメンタリーでも見るが、映画では意外にも初めて。映画にする(あるいは映画で見る)意味を考えた時ふと、二年前に特集上映で見たケン・ローチの「キャシー・カム・ホーム」(1966)に心が立ち返った。作風は似ても似つかないけれど、取材したことを盛り込んだ分かりやすい物語を作って伝えるという構造には通じるところがある。


父親を日本に残し三人がミャンマーへ向かう機内のカットを挟んで、日本とミャンマーそれぞれの、おそらく「普通」が映し出されるが、誰が見るかによって意味が全く違うということをこそ忘れてはいけない。実家に「帰った」母親が「変わってない」「変わった」と言うのは基準がそちらにあるから。彼女は眠れるようになり、子は眠れなくなる。


兄カウンがミャンマーの町をさまよう「クライマックス」の奇妙なこと。ここで彼は、到着時に少年の眼前で閉めた窓ガラスを開けてゆくのだ。そのうち音楽の先導もあり、これが希望に満ちた物語であると分かってくる。どういう類の希望かというと、自己喪失をまぬがれ得るという希望である。驚くべきことに、「帰宅」した彼は「(日本では)ママは寂しかったんだね」と成長までする。そっか、そういう希望の描き方もあるのかと思った。


ビルマ文字と英語のアルファベットの貼られた部屋で漢字の宿題をする子ども達。家族の会話は日本語だが(父と息子達がしりとりをするのが、英語字幕を含め面白い)両親の間ではミャンマー語でなされる。終盤、母親の子どもへの日本語がミャンマー語に変わる瞬間が忘れられない。一方で子らは日本人学校に通うことが示される。この塩梅がいい。この映画の一番の特徴はやはり、先に書いたように、複数の国を心に安定して持てる人間が増えるという希望を描いている部分だと思う。

イコライザー2



とても面白かった、話も暴力描写も全てが好み。二年に一本くらい出会える、例えば「デッドマン・ダウン」や「ラン・オールナイト」のような映画だった。何がというわけじゃなく、見て得られる喜びの種類が似ている。


この手の映画につきものの、オープニングの「いつものお仕事」描写は、デンゼル・ワシントン演じるマッコールと後に描かれる他の奴らの違いを示すためのものと受け取った。マッコールは相手の言語でやりとりをするが、ブリュッセルの被害者は口を閉じてろとばかりにただ殺される(おそらくそのことを汲んでその人物のセリフには日本語字幕が付かない)。穿った見方をすれば、アメリカはちゃんと理解してから悪を成敗しているのだという主張にも取れなくもないけれど。


とあるファミリーに対して皆殺しを宣言するマッコールの背後に別のファミリーが姿を現す時、この映画の世界には上(一般人)と下(人を殺す者達)の違うレイヤーが存在しているのだと分かった(この真逆と言えるのが殺し屋専用ホテルなんてものがある「ジョン・ウィック」かな・笑)。ここで彼がヨーク(ペドロ・パスカル)の娘を抱き上げるのは、勿論自らの保険のためだが、上のレイヤーへの接点を作って手出しできないようにしたわけである。


兄を銃でもって殺されたマイルズ(アシュトン・サンダース)が自分も殺す側に回ろうとするのを、マッコールが「アートじゃ食っていけないなんて、環境や差別のせいにするな」と諭すのは、デンゼルが監督主演した「フェンス」(2016)の、夢を見るな、お前も俺と同じように潰されるのだからと押し付ける父親の真逆であり、それを意識しているという点で二作は繋がっている。「悪」が存在するのは仕方がないが、その連鎖は防がねばならない、身近なところから、というのが本作の姿勢である。


マイルズとの「(ドア越しに)マッコールさん?」「(誰だか知っていながら)どなた?」、「飲み物はある?」「飲みたいのか?」なんてやりとりは、「先生、トイレ」「先生はトイレじゃありません」に代表されるいわば教員ギャグだが、マッコールの几帳面さというより文脈に依らない言葉の遣い方、「教育」にはそれが必要だと考えているのが窺えて面白い。言葉といえば、「あの夫にはガールフレンドもボーイフレンドもいなかった」「妻の方は?女も浮気するのよ」、「おれはアートで食っていくから他の授業は受けない」「馬鹿じゃアートは続けられないぞ」など非常に今っぽいセリフが散りばめられているのもよかった。


女が暴力をふるわれるシーンもとてもいい。何がいいって、女が暴力に巻き込まれたらああいうふうだろうという「普通」がそこにあり、ただそれだけのことが見ていて気持ちがいい(そりゃあ私なら一瞬で気絶してるだろうけど・笑)。スーザン(メリッサ・レオ)からマッコールへの置き土産があの再会に繋がるのが、じんとくるどころじゃないラストだった。