安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

親鸞学徒は親鸞聖人のお言葉に従います(悲しい気持ちさんのコメントより)

悲しい気持ちさんよりコメントを頂きました。

高森会長は先月の教学講義で、阿弥陀仏の本願のお言葉、若不生者の「生まれる」には、死後の往生の意味は全くない。現在信楽に生まれさせる意味だけがあると断言されました。また、親鸞聖人が若不生者の生まれるについて、極楽往生と言われている御著書があります。
私は、親鸞聖人のお言葉と、高森会長どちらを信じて阿弥陀仏の救いを求めるべきでしょうか?
真剣に求める程、阿弥陀仏の本願の解釈(たとえ学問的内容であっても)の違いが気になってしまいます。
山も山さん、私の心が間違っているでしょうか?
(悲しい気持ちさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090210/1234227456#c1234242858

阿弥陀仏の本願はどういう本願なのか?ということが気になるというのは、仰るとおりです。弥陀の本願にただ今救われたいとなれば、阿弥陀仏の御心とは一体どういうものなのだろうかと知りたくなってきます。
どうしたら救われるのかという気持ちはそういう形になって現れてきます。

そこで、何を指針として進むべきなのかということですが、浄土真宗の方ならば、親鸞聖人のお言葉に従うのが当然でしょう。

我も知らぬことなり、何事も何事も知らぬことをも開山のめされ候ように御沙汰候」と仰せられ候。(御一代記聞書)

蓮如上人はこのように言われています。
ここで当てはめれば、教学的な解説が、親鸞聖人のお言葉と、高森会長の講義と違うように思えると言うことでしたら、どっちが正しいか、学者でなければわからないこともあるでしょうが、両者が違うように思えるのでしたら「何事も何事も親鸞聖人のされたようにする」というのが、親鸞聖人の教えを聞くものの態度です。

真実信心があるということと、教学的な間違いをしないということはイコールではありません。若不生者の解説についてはネット上でいろいろと議論されているようですが、このエントリーでは書きません。

親鸞聖人が信心決定されたと言われるのは、29才の時。それまですでに20年間叡山の麒麟児といわれるほど、学問修行に秀でた方でした。その親鸞聖人が弥陀に救われてから、実際に布教を始められたのは関東にいかれた40才過ぎのことといわれています。
その間、10年以上何をされていたのかといえば仏教の学問をされていたのです。
蓮如上人にしても、本格的に布教を始められたのは、本願寺の法主になられてからでした。

人に法を説くというのはそれだけ徹底した仏教の学問がなければ、間違ってしまうことがあるということは、この親鸞聖人、蓮如上人の布教をみられたらわかられると思います。

その親鸞聖人は生涯「一向専念無量寿仏」と教えていかれました。
教えに従うというのは、「弥陀に救われる」ということです。それについて蓮如上人はこのように言われています。

しかれども、帰するところの弥陀を棄てて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、大なる過なりと、心得べきものなり。(御文章2帖目11通・五重の義)

救ってくだされる阿弥陀仏でなく、善知識ばかりを大事に思うのは大変な間違いなのだと言われています。

大事なのは「教え」であって、「人物」ではないのです。
会ったこともない親鸞聖人、蓮如上人を尊敬するのは、その教えられた弥陀の本願が素晴らしいからなのです。

悲しい気持ちさんからは、私が教学講義に参加している前提で質問をしてくださいましたが、私はつい最近まで親鸞会館に参詣していましたが、現在は親鸞会館の行事には参加していません。理由は敢えて書きません。

教えを知りたい人、真実信心を求める人の助けになりたいと思います。
コメントでもメールでもお尋ねください。