安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分の死と向き合うことについて(Kさんのコメントより)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

山も山様は自己の死と向き合うことと阿弥陀仏の救いの関係についてどのようにお考えでしょうか?よろしくお願いします。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090517/1242512867#c1242571709

自分が死んでいくこと、自分が無常だということを知ることはとても大事なことです。
親鸞聖人がいわれる無常をみつめよというのは、生きている間でなければ弥陀の救いにあえないからです。

呼吸の頃すなわちこれ来生なり。一たび人身を失いぬれば万劫にも復らず。この時悟らざれば、仏、衆生を如何したまわん。願わくは深く無常を念じて、徒に後悔を貽すことなかれ。(教行信証)

呼吸の間に次の生になってしまう。一度死んでしまったら長い間また人間に返ってくることはない。生きている今救われなければ、仏様でも助けることはできない。願わくは深く無常を念じて後悔することのないようにしなさいと教えておられます。

人によって無常が縁となるか、自身の罪悪が縁となるかは仏法の聞き始めにおいては異なると思います。
阿弥陀仏の救いが問題になると、自己の死(残された時間)が問題になってくるのです。

抑、人間界の老少不定の事を思うにつけても、いかなる病を受けてか死せんや。
かかる世の中の風情なれば、いかにも一日も片時も急ぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、その後人間の有様にまかせて、世を過すべきこと肝要なりと皆々心得べし。(御文章4帖目13通・秋去り春去り)

人間の世界は老少不定ですから、どんな病気にあって死ぬか分かりません。今日の新型インフルエンザも他人事ではなくなってきました。
こういう世の中ですから、いかにも一日でも少しでも急いで信心決定して、浄土往生一定の身になり、その後はその人に応じた生活をすることが大事なのだと蓮如上人もいわれています。

自分が死ねば、この世と自分のつながりがなくなり、自分というものが存在していたかどうかも誰も覚えていないでしょう。それを悲しいと思うのは、煩悩具足の人間ならば死ぬまでなくならないものです。生きているこの世に対する執着そのものは、阿弥陀仏に救われてもなくなりませんが、後生の問題は、往生一定という形で解決ができます。

阿弥陀仏の救いは、この世に対する執着から来る苦しみを解決するものではありませんが、ただ今救われれば、往生浄土の身になれます。
きっかけは、どうあっても、生きている間でなければ阿弥陀仏に救われることはありません。そういう意味で、自分の死、自分に残された寿命と向き合うことはとても大事なことです。