安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「阿弥陀仏に救われる前と後で私自身に何か特別な変化が起きるということはないということですが、そうすると、弥陀に救われたかどうかはハッキリわかるということではないのでしょうか?」(KYさんのコメントより)

KYさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

KY 2012/12/11 00:32
阿弥陀仏に救われる前と後で私自身に何か特別な変化が起きるということはないということですが、そうすると、弥陀に救われたかどうかはハッキリわかるということではないのでしょうか?
ハッキリわからなければ安心できないように思えますがどうでしょうか。
阿弥陀様が相当な修行を遠い昔にされた結果、南無阿弥陀仏は既に完成しているのだから大丈夫だと思っておけばいいのでしょうか。


私の側ではなにもかわるものはありません。変わるというのは、いうなれば「関係が変わる」のです。
また、「ハッキリ分かる」という言い方も、「自分が何かを得たからハッキリする」と思うのは間違いです。なぜなら、私の手元に何も得るものがないのが他力の信心だからです。


では、なにも得るものがないのならばハッキリしないのかといわれるとそうではありません。阿弥陀仏が私を救うという関係がハッキリするのです。なぜそうなるかといえば、仏願の生起本末を聞きて疑心あることないからです。阿弥陀仏の方で決められた私の往生が、私の往生一定となるということです。
そのような関係があるということに、あれこれと「こうしなければダメではないか」と思うのが計らいです。


南無阿弥陀仏があるから大丈夫だと「私が思ったから」安心というのは、計らいです。南無阿弥陀仏は、本願招喚の勅命とそのまま受け取るのが、他力の信心です。


書いていながら、少しまとまっていないと感じましたので、KYさんの質問に十分答えられていないのではないかと思います。ご不審な点をまたコメントお願いします。