安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

すべての人に平等で、「不請の友」である阿弥陀仏ならば、なぜ私のことは救って下さらないのですか?(?さんのコメントより)

私が知りたいのは、獲信できる人とできない人との違いはどこにあるのか?ということなのです。
すべての人に平等で、「不請の友」である阿弥陀仏ならば、なぜ私のことは救って下さらないのですか?(?さんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140417/1397725284#c1397726817

このコメントについて、複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。
みなさんのコメントはこちらをご覧下さい。

コメント欄で?さんは、「獲信できる人」として妙好人のお園さんの例を挙げておられます。しかし、特定個人の言動と自分を対照して違う部分を探して信を獲ようと考えるのは間違いです。なぜなら、信心は同じであってもその過程は一人一人ことなるものだからです。また、真似をすればより早く信を獲られる考えは法を抜かして、自分の機の有り様の違いで信が獲られるか獲られないかを考えているのですから間違いです。


阿弥陀仏の慈悲は平等といっても、日光のようにどんな場所にも同じように降り注ぐものではありません。一人一人に向き合い、一人一人に応じて導き救ってくださいます。それを「平等ではない」と考えるのは間違いです。なぜなら、人間の考えではそのようにあらゆる人を平等に救うというのは概念として成り立たないからです。


だれかに手厚くかかる慈悲ならば平等ではないと、どうしても考えてしまいますが、阿弥陀仏はそもそも誰かと誰かは違うからと差別をする考えはありません。


誰かの参考意見を聞こうというのは、阿弥陀仏のお慈悲に差別があるからだという考えです。阿弥陀仏にとって?さんは、大勢のなかの一人ではありません。不請の友とは、苦しんでいる時にはたった一人でもそばに寄り添ってくれるものです。それは貴方が大勢の中の一人ではない証拠です。自分は除かれているという考えを捨てて、南無阿弥陀仏に救われて下さい。