A 2014/05/10 17:48
親鸞聖人の和讃に 超世の悲願ききしよりわれらは生死の凡夫かは有漏の穢身はかわらねど
こころは浄土にあそぶなり という詩がありますが、真実信心を賜れば凡夫の身でありながら
「心は浄土に遊ぶ」ような心境に本当になれるのでしょうか?
超世の悲願きゝしより
http://www.shogyoji.or.jp/kyoten/wasan_txt/jyougaiwasan.txt
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかはらねど
こゝろは浄土にあそぶなり。(帖外和讚)
この帖外和讚は、浄土真宗聖典(註釈版)には収録されていないものなのでリンクはいつもと違う所をはっています。
「こころは浄土にあそぶ」とはどんなことかと言えば、親鸞聖人は歓喜という言葉について以下のように言われています。
「歓喜」といふは、「歓」は身をよろこばしむるなり、「喜」はこころによろこばしむるなり、うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり。(一念多念証文)
http://goo.gl/gYH4Hr
これは、本願成就文の「信心歓喜」の「歓喜」について書かれた所です。ここでは、「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころ」とあります。「うべきこと」とは、浄土往生し、仏となることです。しかし、現在生きている時は、浄土往生はできませんし、煩悩も変わりません。そこで、現在浄土往生はしていないけれども、必ずそうなることを先だって喜ぶ心であるということです。
Aさんが「こころは浄土にあそぶ」をどのように考えておられたかは分かりませんが、私は以前、釈尊のお弟子や高僧のひらいたさとりの境地に近いものがあるのだと思っていました。しかし、それは間違いでした。現在ただ今、阿弥陀仏のただ今助けるの仰せを聞き受けているだけであって、私はあくまで凡夫です。その私が「我が浄土に生まれよ」と南無阿弥陀仏を聞いて「浄土往生させて頂けるのだ」と喜んでいるのが「こころは浄土にあそぶ」です。なにか悟ったようなものではありません。
毎日が楽しみばかりで、苦しみを感じることがなくなるということはありません。しかし、何があってもこの南無阿弥陀仏は私を助けるお働きであるという点は変わりませんし、浄土往生は変わりません。ただ今救うの南無阿弥陀仏を聞いて救われて下さい。