安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「ただ今本願を聞こうと思う一方で、なかなか聞こうとしない自分がいます。どうしたら、この心が聞くのでしょうか?」(頂いた質問)2

前回のエントリーの続きを書きます。

コメントを頂き有り難うございました。コメントを紹介します。

まごころ 2014/06/06 16:22
斬新な問いかけに考えてみましたが、
Bが阿弥陀仏の仰せを聞くまでは、
B=Cにしか思えません。
BとCは一心同体のようなもので、切り離せない存在にすら思えます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140605/1402034694#c1402039350

白やぎ 2014/06/06 16:46
私も考えてみましたが、
未信の人=B+C
信後の人=(B+C)−C=Bということなのかな?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140605/1402034694#c1402040807

たかぼー 2014/06/06 18:19
信後においても管理人さんが言う「観察者」はつねに存在しているが、観察の対象と観察した上での分別の仕方が信前とは違ってきます。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20140605/1402034694#c1402046371

(再掲)

ただ今本願を聞こうと思う一方で、なかなか聞こうとしない自分がいます。どうしたら、この心が聞くのでしょうか?(頂いた質問)

これについて、前回のエントリーで以下の図を用いて書きました。

A 阿弥陀仏  
↓助ける働き ←C 観察者 
B 私

助けるA阿弥陀仏が、Bによびかけられているが、Bはなかなか聞いてくれない。それをCさん(観察者)が尋ねてきているという内容でした。

この文章を読むと、私といっている私は果たしてBなのかCなのかと疑問を起こす人もあると思います。しかし、このブログをご覧になった方で疑問に思わない人も多いと思います。なぜなら、私も過去いた団体でこれと関係の深い話を聞いていたからです。


そこでは、人間には上の心と下の心と二つの心があり、上の心は思慮分別の心であり、下の心は仏法を聞かない死んだような心である。その下の心に聞かせないと救われないといったような話でした。


最初にその話をインプットされて、阿弥陀仏の本願を聞いたり、お聖教を拝読すると以下のようになります。一例として御文章2帖目8通を拝読したときの心の声を再現したみました。

それ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、むなしくみな十方三世の諸仏の悲願にもれて、すてはてられたるわれらごときの凡夫なり。

http://goo.gl/WZVGYg

C「こんなこと書いてあるけれど、なかなか本当とは思えないなぁ。そうか、このなかなか本当に思えないのが下の心か!この心が聞かないといけないんだな」

しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、いまのごときの諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりてわれひとりたすけんといふ超世の大願をおこして、われら一切衆生を平等にすくはんと誓ひたまひて、無上の誓願をおこして、すでに阿弥陀仏と成りましましけり。

http://goo.gl/WZVGYg

C「そんな仏様がおられるのか、確かにそんな方がおられなければ私が浄土に往生なんて出来るはずはない。しかし、そうとは思えない心があるなぁ。この心が聞かないと行けないんだな。続けて聴聞をしよう。いつかこの心(B)が聞くかも知れない」


一例として書いてみましたが、私は以前このようなことを考えて御文章を拝読していました。このように文章にしてみると、とても奇妙な感じがします。なぜなら、阿弥陀仏の仰せは、ただ今お前を救うというものにも関わらず、他人事として聞いているからです。

また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。 (教行信証信巻 引文 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P224)

http://goo.gl/Fk2MDR

阿弥陀仏の仰せは、まとめて言えば「汝」と私に対して阿弥陀仏が「直ちに来たれ、汝を護らん」というものです。ここでは、我(A 阿弥陀仏)と汝(B 私)しかありません。

以下、図にしてみました。

このように、本来は阿弥陀仏から私へ、「我」と「汝」の二者しかいない話です。「我」と名乗られた阿弥陀仏が「直ちに来たれ、汝を護らん」と言われているだけです。それにも関わらず、それを眺めているCこと観察者は誰でしょうか?

以下、図にするとこのような感じです。

このようにするとよく判りますが、相撲で言えばAとBの取り組みを観客Cが見ているという図式です。これで言えることは、Aが勝ってもBが負けても、Cにとっては直接関係はない話だということです。どちらが勝ってもCの負けにも勝ちにもならないと言うことです。

つまり、BがAの仰せを聞き入れた(負けた)場合、阿弥陀仏の仰せを聞いたのですが、その時Cはどうなっているのかと言うことです。
図に書くと以下のようになります。

こうなると、本願を聞き入れたBは浄土往生するとしてもCはどうなるのでしょうか?


結論として、Bこそ私であって、それを観察しているCはBの生み出した計らいに過ぎません。その計らいが「私」であるかのようにおもって、逆にBを計らいのように思っているのですから、いつまでたっても本願の仰せは聞けません。なぜなら、二者の間で「なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ」と言われることを、第三者を登場させて三角形を作るからです。


南無阿弥陀仏が直接よびかけられているのは、Bです。それを、勝手にCを生み出してそれから逃れようとしているのですから、いつまでたっても相撲で言えば土俵に上がらないと言うことです。


阿弥陀仏の本願も、南無阿弥陀仏の仰せも観察したり、批評したり、分析するものでもありません。もし、そのように観察、批評、分析する貴方は、貴方自身か計らいであり、自力であることをよく知って頂きたいと思います。


貴方が、本願を聞いてあれこれ考えているのは実は貴方が「自分」だと思っているのがそのまま「自力、疑情」であるということを知ってください。それは、本願の仰せから逃げようとする私が生み出した幻影に過ぎません。


今度こそ、土俵に上がって、阿弥陀仏が「汝」と呼びかけられるのは「私」であると聞いて下さい。ただ今必ず救われます。