安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述) 「13 名体不二」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。

13 名体不二

 これまで御話し申した如く、音声法の御六字が、生き仏同様の御徳のあることを、名体不離と申しますので。是を聖教の上よりいえば、名体不二といってありますが。名体不離という言葉は、聖教にはありません。

 
 然らば何故に不二といわずに、不離といったかと申せば。不二が悪いから不離と改めたというのではなく。西山の生仏不二の安心に、まぎれぬように、不二というべきところを、不離々々と言い慣(なら)わしたまでのことで。不離といっても不二といっても、其意味に於ては更に別はない。併(しか)し実際に於ては不二といった方が、却って御話しがよく解ります。不二というは読んで字の如く、二つでないということ。然らば一つであるかというに、そうでもない。一つのものなら初めから、名体一と申しましょうが。不二といった裏には、不一というこころがあるので。名号と仏体とは一つでもなく、二つでもないというのが、名体不二の味わいであります。さぁ一つでもなく二つでもないといっては、甚だ怪訝(をかし)いようですが。是が実に弥陀の別徳で、飽(あく)まで聞いて戴きたいところであります。


 先ず一つでないというは、前にも御話し申した如く。名号は耳で聞くもの、仏体は眼で見るもの、聞ゆる声と拝む仏と、一つであるべき訳はない。我々も名称(なまえ)と身体は丸々違うゆえ、名と体と不一という点に於ては、弥陀も衆生も同じことであります。然るに其名と体とが二つでないというのが、阿弥陀如来に局(かぎ)る別徳で。其聞こゆる六字と拝む仏と、品は違えど価値(ねうち)は寸分かわらぬので。其価値の点よりいえば全く二つでない。仏体に千円の価値がありとすれば、名号にも千円の価値があるというような訳で。西方浄土の仏体に、光明無量と寿命無量の御徳があれば。今ここに聞ゆる御六字にも、光寿二無量の御徳がある。生(いき)て光った御仏に破闇満願の功徳があれば、称えらるる御六字にも、破闇満願の功徳がある。相(すがた)のまします仏体に、願と行とを持って御座れば、形のない名号にも、願と行とが具足してある。彼尊(あなた)の御身に往相還相の廻向があれば、此御六字にも往還二種の廻向がある。親様の御体に落る衆生を抱き上て下さるる力用(はたらき)があれば、親様の御名称(おなまえ)にも落る私を抱いて助けて下さるる力用がある。是を名体不二の別徳と申します。


 譬えて申せば、銭と紙幣とは不一不二。銭は金銀銅で作りたもの、紙幣は紙で拵(こしら)えたもの。全く違った品なれども、金貨百円の価値も、紙幣百円も同じことで。品質(しな)からいえば一つでない、価値をいえば二つでない。是を今日の学生さんの言葉でいえば、仏体イクオル六字。名号イクオル光明。金貨イクオル紙幣という代数式が出来るというもの。ツマリ紙幣を持ったも、金貨を持ったも同じこととすれば。生きた仏に御逢いしたも、名号六字を聞信したも、更にかわらぬ御利益とは、実に霊妙不可思議のことであります。


 吹けば飛ぶような僅かの紙に、百円とかかれてあれば、金貨百円と同様に仕用(つか)わるるは、どうした訳でしょう。紙に金貨のこもる理屈はなけれども、こもる理屈のない紙に。価値をこめて通用させて下さるるは、天皇陛下の法律の約束があったればこそでしょう。今影も形もない御六字に、生(いき)た仏の功徳なんどが、あろう道理はなけれども。あろう道理のない御六字に、生きた仏の功徳をあらせて下されたは、弥陀の本願の御約束があったればこそ。陛下の法律の廃れぬ限りは、日本中だれが持っていても金貨同様に通用するのが紙幣である。今弥陀の本願の動かぬ限りは、法界中誰が戴いても、生た仏も同様に助けて下さるるが六字の御力用(おはたらき)である。ツマリ仏が六字、六字が仏、仏と六字が同様の力用のあることを、不二とも不離とも申し奉るところであります。


 然ればかかる尊き円融至徳の御六字を。実に聞不具足とは申しながら、今日まで六字は聞きもの称えもの、御恩報謝の道具として。信心と御助けを、六字の外に尋ねて来たことの勿体なやと、改悔懺悔が出来ましたら。覗って御覧胸の中、何はなくとも親一人。聞こえた六字が御座るもの、是で安心是で往生。親に抱かれた身の楽さ、此機彼(あの)機の世話いらず、帰悦帰税(きねつきさい)の大安慰、忘れて暮すしたからも。親のすがたがこいしくは。いつも逢はるる御念仏。今日一日と励みつつ。波風あらき世渡りも。勇み勇んで、つとめあげ。近付浄土を待ちうけるのが、信決定の身のしあわせである。


以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

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