安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録(松澤祐然述)「41 信体と信相」

※このエントリーは、「以名摂物録(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

前回の続きです。
※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であることも考慮してそのまま掲載しています。

41 信体と信相

この一念発起平生業成のたのみぶりも、縋る形も金剛というも、堅固というも、自力を捨てるも、疑い晴れるも。すべて信相の有りだけは、我々の意識の上に、確かに顕れるに違いなけれども、その顕れた残らずが、我等凡夫の心の実質が、左様な確かなものに変化して、現れるのではない。御廻向の六字の実徳能が凡心の上に働いて下さるる形を。他力廻向の信相と申すのであるから、一流安心の体は婆婆の思いじゃない、爺爺の心じゃない。南無阿弥陀仏の六字の相であるぞとお示し下された。次第であります。


然るに、体を捉えずして相を見ようにかかり、信体の外に信相のあるように考えて。六字は六字と別物にしておいて、信相を尋ねて御座るものじゃから。網のかかっただけでは、信相の立場がないの、御助けの縄の外に、縋るこの手の信相を出さねばならぬのと。

面倒な話しになって来て、甚だしきに至っては、他力の手を貰って、その手で縋るというような。大正年間の人物には、とても解りかねる、時代後れの可笑しい議論が出て来るのじゃ。


皆様よ、この辺を重ねて味わって見て下さい。石に網のかかったその時に、石その物の実質が落ちんようになってから、落ちん相が現れるのではない。落ちる地金のそのままで落られん相は届いた網の力用なることは、子供に見せても明かなことでしょう。


地獄一定の我々に、落とさぬ六字の御誠が届いた時に。凡夫が落ちんようになってから、往生一定の思いの現れるのではない。落ちる実機のそのままで、往生一定の味わいは、届いた六字の力用なるゆえに、これを凡相といはずして、信相と申すのじゃ、六字が信で働く形が相である。


そこで能機の信相ということを、平易に解釈して見れば。我が機の上に六字の働く相ということである。
石の上に網の働く相が網相。身体の上に袈裟の働く相が袈裟相。内陣に打敷の働く相が打敷相。意識の上に六字の働く相が信相で。身口二業の上に、六字の働く相が行相である。


能信能行共にこれ六字の働きにして、その働く場所が有念有想の意識の上に働いて貰っては。どうしても無念無想になっておられるはない。火に触れば熱いの心地が顕れ、砂糖をなめれば甘いと働く。
今この六字はどう働く。一つや二つの働きではない。雑行を捨てるとなり、自力を離るるとなり、安堵となり、決定となり、たのみとなり、力となり、後生助けたまへとなり、疑い晴るるとなる。働く相は種々あれど、その体皆これ六字一つの仕事より外はないことである。


そこで、この体と相ということに付いて、もう少し委しく御話しがして見たいが。皆様よ先ずこの仏前に飾ってある、仏具を御覧なさい。
輪燈、花瓶、燭台、香炉、御仏器も、鶴亀も、相は種々に別れてあれど。その体を押さえて見れば、一つ真鍮の外はない。
その真鍮が火の力で溶されて鋳型の中へ注ぎ込まれると、忽ち鶴となり、亀となり、香炉となり、花瓶ともなる如く。鋳型が百あれば百の相となり、千あれば千の形となる、仏具残らずの体が真鍮の相である。


今一流安心の体残らずが、南無阿弥陀仏の六字の相。六字の真鍮を善知識の蹈鞴にかけて、噛んで砕いて溶かして。我等が心のどん底へ、聞其名号と流し込んで戴く時に。我等が手元に種々の鋳型があるから、様々の形が顕れてくるこれを信相と申すので。

今その一つ二つをいうて見れば。
先ず我々の手元に、仏になるのじゃもの、少しは善い心にならねばなるまいという。罪福心の鋳型のある処へ、南無阿弥陀仏の御助けが、溶け込んで下さるると、忽ち雑行を捨てるという形が顕れてくる。

極楽へ参るのじゃもの、何卒この機をたしかにしてという自力の鋳型のある処へ、他力至極の六字が入満ちて下さるると、忽ち自力を捨てる相が出来る。
出掛ける未来が心配でならん鋳型へ、六字が届くと、安堵となり。
後生一つに定まりのつきかねた鋳型へ、御助けが届くと、決定と顕れ。
妻子珍宝何一つたのみ力になりかねる鋳型へ、落さぬ六字が溶けこんで下されて、たのみ力と現れる。
親子夫婦の中でさへ、疑いだらけの心の底へ、必ず助くる御手柄が響かさせられた一念に。この心の露ちりほども疑いなければと晴られる。


この信相の数々が、一つ一つ順々に出来てくるよな訳ではない。聞其名号の一念に、思う思わぬ世話もなく、六字一つに具足してある働きなればこそ。この道理あるが故に、六字を押へて、我等一切衆生の往生の体は南無阿弥陀仏と聞こえたりあなかしこあなかしこと御結び下されてある。


さあこれで皆様御呑み込が出来ましたか。一流安心の体は更に凡夫の仕業ではない。南無阿弥陀仏の六字一つの働きが、この機の上に顕れて下さるる形を能機の信相と申すので。全く自力意業ではないということは明瞭でしょう。


然るに意業を除けては、無念無想になろうかと心配し。意業ときめれば自力になってしまうので。さては自力にもあらず、無念無想でもない、確かに有念有想の縋る思いを起させて。それを意業ではないことにして。見事他力に通用させたい所存より。自分の手で縋ったのではない、他力の手で縋るのじゃという。可笑しい議論が随分世間にあることで。これは数多の人の迷い易い所であるから、次席に委しく御話しを致しましょう。

元本をご覧になりたい方は下記リンク先を参照下さい。

以名摂物録 - 国立国会図書館デジタルコレクション

以名摂物録

以名摂物録