安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

以名摂物録 後編(松澤祐然述)「32 念仏為本信心為本」

※このエントリーは、「以名摂物録 後編(松澤祐然述)」(著作権切れ)からのテキスト起こしです。

※原文には、今日の目から見て差別語とみなすべき語彙や表現もありますが、著者が故人であること、当時の説教本であることも考慮してそ
のまま掲載しています。

32 念仏為本信心為本

 座に座を重ねて本願の三信十念について、御話しを申し尽くしましたが。皆様も退屈なく、よく聴聞をして下されました。たのめと呼んで下されたも称えよと仰せられたのも。弥陀が助けるための条件では無い。
 
 
 弥陀はもとより条件なしで、御助けくださるる。その無条件の御助けが、南無阿弥陀仏の名号と出来上がったが十七願。その十七願の名号が、第十八願の我等の手元へ。獲得と届いたかたちが、心には三信のたのみとなり、口では十念の念仏となる。この三信も十念も、凡夫の機から出すのではない。届いた六字の働きなるが故に、これを他力廻向の信行と申すのじゃ。
 
 
 この故の南無阿弥陀仏の御助けが、確かに頂かれたる人ならば。必ず心では信ぜられ、口では行ぜらるる筈である。然るに、心では信ぜられたつもりでも、口に称うる行の出ぬものならば、それは真実の信ではない。又口で何程称えても、心にたのまれてなかったら、申す念仏も仮名である。この事は前席に於いて、行きつ戻りつ詳しく御話しを致しました。


 これについて尚も皆様から、深く注意を払うて頂きたいことのあるは。
真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。
とある、信の巻の御言葉についてただ今も申す如く真実の信心を得たものは。必ず口に名号が称えらるる。しかし、口で名号を称えていても。それで必ずしも願力の信心を、得た人とはいえないという、思し召しであるが。
 
 
 これをうらから味わって見ると。信心をなしに念仏ばかりを称うる人は、あるけれども。念仏も称えざる人にして、信心だけのあるものは、決してないぞということになる。その故は、口に称うる念仏は、信心に必具の法である。必具の法というは必ず具わって出る品のことである。蓮如上人の御言葉にも。
真実信心を獲得してる人は、必ず口にもいだし、又いろにもそのすがたは見ゆるなり。
とあれば、信心に必ず具わって出るべき、その名号が。口に出ぬような人ならば、信心の頂かれてあるべき道理はない。


 泉には必ず流れを具す。流れには必ずしも泉を具せざるなり、というようなもので。信心は泉の如く称名は流れのようなものである。信心の泉はなくとも、称名の流れだけのあることは。随分世間には例のあることで。それは人為の流れ、自力の称名である。
 
 
 しかし称名の流れのないものに、信心の泉のあるべき訳は、恐らくはあるまい。そうして見れば。称名念仏をしておる人の中には。信心のあるものと、ないものとの二つはあるが。称名念仏せざる人には。信心のないものばかりにて、信心のあるものは、誓うて皆無と見て差し支えないというのが。真実信心必具名号の、御言葉であるかと伺われます。


 かくの如く決めて見ると。さても歎かわしいと思わるるのは、今日一般真宗の教界ではありませんか。私から初め皆様方、僧といわず俗といわず。口に信心の沙汰を致し、言葉に法義を讃嘆する人は沢山あるが。サァ必具の称名が、まめやかに流れておる人は至って少ない。少ないぐらいは、まだしものこと。稀に称名念仏を、励む人があると、反って非難攻撃をするような傾きがある。是は何たる浅ましい現象でありますか。皆様よ、よくよく考えて見てください。


 抑、この浄土真宗という御宗旨は。宗内にあっては、もとより信心為本であるけれど。他宗対抗のときは、信心宗では決してない。たしかに念仏宗であります。これは皆様必ず忘れて下さるな。而もその念仏というは、観念や慧念の念仏ではない。称名念仏の宗旨なることは、今更論ずるまでも無いことである。
 
 
 「念仏成仏是真宗」とあるからは、真宗の流れを汲む人に於いては信不信にかかわらず、念々不捨の大行が南無阿弥陀仏を称うることであるということは、忘れてはなりません。信心正因称名報恩と、いうようなことや。自力他力などということは。先ず念仏を称うる、身になった上でのことであります。
 
 
 碁に上手じゃの、名人じゃのということは。兎も角も碁器を玩ぶ、身になった上のことで。碁器に触る心もないものが、初段も二段もあるものか。その様な話は、沙汰の限りといわねばならぬ。念仏の碁器にも触らぬものが。信心安心の奥の手が、獲得出来る道理はない。
 
 
 そこで先ず往生之業の六字念仏の宗旨である。その念仏為本の宗旨の上に。往生の業事成弁というて、極楽参りの正しく定まる時は。何時であるかと尋ぬれば。念仏のいわれ六字の御力を心に信じた一念に定まるので。その後に称うる念仏は、自身往生の業とは思うべからず。ひとえに仏恩報謝の思いより、念仏相続致せよと仰せらるるが、信心為本の宗旨である。


 しかし念仏為本、六字為本ということは、真宗に限らず、浄土門全体に通ずるので。西山鎮西も、共に念仏為本である。殊に浄土真宗は、六字の外に余行余善は更に雑えず。自力機執は厘毛も加えざるがゆえに。念仏為本のうちにも、絶対の念仏為本宗は、我が一流に限るというて宜しいのじゃ。
 
 
 そして自余の浄土宗は、この念仏の絶対の功力を知らざるがゆえに。六字の届いた信の一念には、往生の定まりはつけかねて。自力雑行の、雑ぜものをしておるから。信後の行業の、出来と不出来が、往生に大関係をきたすのじゃ。
 
 
 然るに我が真宗に限っては。この六字の絶対の力を信ずるがゆえに。口で南とも無ともいわずとも。心に六字のおいわれが届いた一念に、早や正定不退の身となるので。後念の称名は、総てこれ報謝の行と、御勧め下さるるが信心為本の御宗旨である。かくの如く、念仏為本と信心為本と、宗旨が二つあるように聞こゆれども。決してそうではない。行々相対のときは、いつも念仏為本にして。能信能行と並べるときは、必ず信心為本である。
 
 
 能行の口称を待たずして、信ずる一念の御六字で、早や往生が定まればこそ。いよいよ念仏為本の、念仏為本たる所以が解り。又余行を雑えず、自力の功を借らず、念仏の信ぜられた一念に、往生の業事成弁すればこそ。信心為本の宗義が、明瞭することである。
 
 
 何も宗旨が二つあるのでもなく。法然上人が念仏為本で、我が祖聖人が信心為本じゃというのでもない。信心為本も、念仏為本も、両々相待って浄土真宗が成り立つのじゃ。そこで浄土真宗そのものは、親鸞が初めて開いたのではない。
智慧光のちからより
 本師源空あらはれて
 浄土真宗をひらきつつ
 選択本願のべたまふ
と法然上人の開かせられた其のままを、伝えた宗旨が浄土真宗であるぞよと。御知らせ下されが、ただ今の御和讃である。