安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「私の心や行為に関係なくお救い下さるのが南無阿弥陀仏だと理解しております。
ただ、何かを思ってなくては、ただ声にするばかりで、聞く気になれない気がするのです。
何も思わなくとも、聞かせるのが南無阿弥陀仏なのでしょうか。」(でんさんのコメント)

でん 2016/09/12 10:41
はい、意識することで救われるとは思っておりません。
私の心や行為に関係なくお救い下さるのが南無阿弥陀仏だと理解しております。
ただ、何かを思ってなくては、ただ声にするばかりで、聞く気になれない気がするのです。
何も思わなくとも、聞かせるのが南無阿弥陀仏なのでしょうか。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20160910/1473509206#c1473644470


エントリーが遅くなり、申し訳ございませんでした。
何かを思っていなければ、聞く気になれないと言うお気持ちはよくわかります。私もそのように思っていました。
また、「何も思わなくとも、聞かせるのが南無阿弥陀仏なのでしょうか。」についてはその通りです。しかし、誤解のないようにいいますと、それは阿弥陀仏の「あ」の字も考えたことがない人が、ある日救われるという話ではありません。何かといえば、私が助けてくださいと願ったから、それに応じて助けてくださる阿弥陀仏ではないと言う意味でのことです。考えてもみれば、私が救いを求めるのに先だって慈悲を起こされ、本願を成就された阿弥陀仏の本願です。その上でさらに、私の「助けて下さいの願い」がなければ救わないということはありません。たとえて言えば、大規模な自然災害がおきたときは、被害にあわれた地域からの要請がなくても、被害が大きければ救助隊は出動します。
困った人を助ける備えがすでにある救助隊が、「助けて下さいと連絡がなかったので出動しませんでした。」ということはありません。


同様に、阿弥陀仏が助けるのが先であり、助けていただく私のほうは後になります。助ける阿弥陀仏は、助ける準備が出来ているだけではなく、現在も助けようと働いて下さっています。それに対して、私は「助けて下さいと思う」のではなく、助けるの仰せを受けるだけです。

それにもかかわらず、「何か思わねば」というのは、「助けて下さいと思わねば助けて頂けない」との思いからではないかと思います。現実でも「助けて下さい」と声を上げたり、救難信号を発信するのは、現に救助隊がきていない場合のことです。救助隊が目の前に来ているのに、「助けて下さい!!」と大声をあげる人はありません。

でんさんが、何かを思わなければと考えられるのも、ただ今阿弥陀仏が助けに来て下さっていると思えないからだと思います。
しかし、すでに阿弥陀仏は救うと呼びかけられています。
ご和讃に

如来の作願をたづぬれば
 苦悩の有情をすてずして
 回向を首としたまひて
 大悲心をば成就せり(正像末和讃)

とあります。

でんさんにとって、読んで欲しいのは「苦悩の有情をすてずして」と「回向を首としたまひて」です。阿弥陀仏は、でんさんをすてられないのですから、回向をされるのです。「どうしても助けて欲しい人なら助けます」という阿弥陀仏なら「苦悩の有情をすてずして 回向を首と」されません。

その回向が南無阿弥陀仏ですから、それにでんさんが何か思っても思わなくても、救う働きはあります。それは、意識してもしなくても、太陽にてらされるとまわりに闇がないのと同じです。

あくまで、阿弥陀仏が先であって、私の思い心はあとまわしです。阿弥陀仏の願いを聞き入れて下さい。ただ今救われます。