Inn

22日早朝に現地到着する予定で、ヒリゾ浜へのシュノーケリング行を計画していたのだが、土曜日仕事だった某君が急遽参加不能になったため、行程を早めた。午後、浜松から友人達が到着。1ルームの我が家で7名の雑魚寝はきびしいし、時間のゆとりも出来たしとのことで、中木の民宿に電話をしてみると、部屋が空いていたので突然民宿一泊ツアーへと変更。
運転を交代し、一路南伊豆へ。運転手の私を除き、1ボックスカーの車内ではすでに酒宴が開始され、アルコール臭が充満。
夕食直前に中木集落に到着。夕食前、眼前の港を散歩中に酔っぱらいの某君(23才)が防波堤から飛び降り、足を負傷。骨にヒビが入ったと思われ、大きく腫れる。まったくもって自業自得なのだが、これ以降、ビッコをひく彼は最下っ端から王様扱い?へと昇格。
予約時に舟盛りを追加注文しておいたのだが、おばちゃんが忘れていたとのことで落胆。しかし、お詫び代わりに、と刺身盛りが追加される。朴訥で美味しい夕食を堪能。
夕食後、某君(35才)のメガネがあまりにも汚れているため、「拭いたら」とティッシュを差し出す。酔っぱらいの彼は力の加減が出来ず、メガネを破壊。自業自得ではあるのだが、メガネ拭きをすすめた手前、なんとなく責任を感じる。これ以降、彼は夜間でも度付きサングラスを着用することとなる。
浜辺で花火。自分ではまったく火を付けずとも、皆が楽しんでいるのを見るだけで満足。なおも酔っぱらっている某君が、暗い浜辺で度付きサングラスをかけながら、手持ちでネズミ花火に火を付け、投げようとして転び、足を大きく切る。自業自得ではあるのだが、治療が必要。
花火後は入浴し、民宿の部屋でささやかな酒宴を張るが、私は風邪気味であるため、ほとんど飲まず。入退院を繰り返している某嬢(21)は、疲れて体調がすぐれず、沈み込んでいる。早く寝ろ、と言っても、楽しそうな宴会の場から離れたくないらしい。某君(35才)は例のごとく泥酔。例のごとく彼の就寝準備をし、しかも同室の彼のいびきに悩まされる。この作業をもう20年来、何度繰り返してきたことか。彼を連れてきて、しかも飲むのを認めていた私の自業自得ではある。彼と同様、私にも学習効果がないのか。

Self-responsibility

少し前に「自己責任」との言葉が流行った。
個人権利の行使と自己責任は表裏一体なのだから、個性の尊重、価値観の多様化が唱えられて久しい昨今では、以前よりも自己責任を問われることも多いのだろう。私も日常的に「それで誰それがいいと言ってるんだからいいじゃないか」と、他人の意志・権利を尊重している。
しかし、これら意志・権利を尊重する習慣が確立してしまったため、本来そうすべきでない場合、すなわち表裏一体であるはずの自己責任を取れない場合にまで、他人の意志・権利を尊重しすぎてしまってはいまいか。
自己責任を取れない者には、未成年者、泥酔、疾患による心神喪失者等があげられる。では、これらの者の行動は誰が律し、そして責任を取るべきなのか。未成年の場合には、保護者が定められているから問題は少ない。泥酔者の場合には、泥酔から回復した時点で本人に責任履行能力が回復するが、判断をそれまで待てない場合も多いし、通常の酔いと泥酔・酩酊との境界が漸移的であるため、本人の権利喪失時期の判断が困難だ。酔っぱらいが「大丈夫」と言ったところで、説得力はないが、では、一体、誰が判断すべきなのだろうか。また、判断した者には責任が発生するのだろうか。私がほぼ素面の状態で、同行の酔っぱらいが素行不良を続けてくれたおかげでそんなことを考えた。本人達は大丈夫と言っていたのだが、結果的には大丈夫ではなかった。酔っぱらいの行動を律せないのならば、飲ませるべきではない。
同様に、本人の意志を尊重し、心身共に状態が悪くてドクターストップがかかっている病人を遊びに同行させてしまった。ドクターストップがかかるくらいなのだから、本人に判断能力もないのだろうし、責任履行能力もない。酔っぱらいの心神喪失の判断は困難ではあるが、病人の状態に関しては専門家たる医者が判断している。医者の判断は往々にして安全側にふられているのだろうが、病人本人にも、医者以外の周囲の人間にもそれを覆すだけの判断能力が無い。その病人に何かあった場合、責任を取るだけの意志と能力がなければ、医者の判断に逆らうべきではない。今回はたまたま大きな過失に繋がらなかったが、本人にとって取り返しの付かない事態に陥る可能性もあったのだろう。
未成年者や心神喪失者の意思を尊重し、その行動を看過することは、「未必の故意」に相当するのだろうか。また、本人のためにこそ、自律状態に無い者達には客観的立場から苦言を呈するべきではないだろうか。