白鳥のめがね このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-07-31

[]『白鳥のめがね』について

『白鳥のめがね』というタイトルについては、以下のような説明を掲げてきた。

このダイアリーのタイトルは次の文章から拾いました。拾っただけです。

「生まれてきたことを恐ろしいと思わせるような作品でなければ嘘だ、という意味のことを言ったのは、たしかわが正宗白鳥だったが、「生まれたという罪」を呪いつづけるサミュエル・ベケットはまさしく白鳥のめがねにかなったであろう数少ない現代作家の一人だ。」(高橋康也著『サミュエル・ベケット』(研究社、1971年)の「あとがき」冒頭より。)

ブログ情報 - 白鳥のめがね

ここに引用することになるあとがきを読んでいて「白鳥のめがね」という字の並びを見たときに、なんかかわいい、と思って、タイトル候補にしようと考えた*1。はてなダイアリーを始めようとしたときに、このことを思い出して、タイトルにしたのだったと思う。

近眼で困っているまぬけな白鳥、という風なイメージが浮かぶといいなあと思ったのだけど、『白鳥のめがね』という、とぼけたタイトルは、でも、なんかちょっと恥ずかしいというか、そぐわないというか、そういう感じがずっとしていて、だからこそ選んでいるんだという風な気持ちがあった。

まあでも、そういう時期も決定的に過去になってしまった。

このエントリー以降、このダイアリーで、新しい日付での更新は行なわれない。

付記:次に始めたブログはこちら→plankblank

*1:母校の院棟の防災センター受付で勤務中に読んでいたことを良くおぼえている

2010-07-02

[]クロムモリブデン『恋する剥製』

クロムモリブデン自体はじめてみるけど、名前は聞いたことがあった。

作風としては、すこしスタイリッシュで軽快だけど、基本は王道の小劇場スタイルというか、80年代以降の良くあるタイプの演劇の範囲に収まっているとは言えると思う。

だから、僕みたいな観客からすると、あまり趣味ではない。まあなので、わりと無責任にたのしんで見た。

王道の小劇場スタイルって書いたけど、たとえば宮沢章夫さんなんかにしてもケラとか鴻上さんとかにしても、劇作家兼エッセイストみたいなポジションというのがある。

わりと、軽快でナンセンスな喜劇的な調子の上に、世の中ちょっと別の視点で見てみると面白い発見があるという風なエッセイスト的な気付きを乗せていく、という風な仕方で、ちょっとした生きづらさみたいなものへの諧謔をちょっとひねって共感しあうみたいな場所としての小劇場という空間って、あったと思うんですよね。そういう意味での、小劇場の王道。もう、このまま続けると消費社会の古典芸能として成立するよなって感じの、王道。

その王道の小劇場って、裏返して悪くいえば、こてこてに保守本流な小劇場って言い換えられるのだけど、そんな風なことを平気で言える自分でも楽しんでみられたのは、やっぱり役者のキャラクターが躍動するままに舞台に造形され定着されていたからなんだろうと思う。

ちょっと様式化されたキャラクターたちが、飛んだり跳ねたり踊ったりする。ってつまり、古典的な意味での喜劇として成り立っているってことなんですよね。

そういう喜劇が、消費社会的な世界を解釈する枠組みとして捉えられたのが、80年代に様式として固まった小劇場ということなんだと思うわけです。クロムモリブデンは、その直系の伝統を芸能として継承しているよな、と思う。

客演の小林タクシーさんも、でたらめな屁理屈で煙に巻く怪しげなキャラを見事に立てていたし、それぞれの女優もコメディ女優として素敵だったし。

おしゃれにはなりきらず、かといって、無粋にもなりきらず、ってあたりの絶妙な線で、ちょっと考えちゃったりもするコメディとして成立していたと思う。

それぞれ魅力的だったけど、役者さんを二人選ぶとすると、男性では、体育教師風の社会科の先生をやってた人(コガ役の小林義典さん?)のコクのある身体性は舞台にアクセントを加えていてよかった。女性ではクロエ役の金沢涼恵さんは良かったですね。

金沢さんの、ちょっと浮世離れしたキャラクターで、教祖的な存在にまつり上げられていくふうな、禁欲的で現世超越的で理想がかった抽象的な語りや、硬いけどぶれない風な、ちょっと世間との間に膜が張られているみたいな表情のあり方とか、とても説得力のある演技で、とても強く成り立っていたと思う。

そういうところのモノローグの書き方とか、演出の立て方とか、作・演した、青木さんの才気を感じさせる。

まあでも脚本としては、一見ばらばらででたらめなストーリーがたまたま隣の部屋だったので全部収束しそうなんだけど、ストーリーとしては収束させずに、移動する壁を駆使して、無声映画のスラップスティックみたいに軽快で、でもスピード感ある舞台転換を畳み掛けたアクションで終わらせるというあたりも、ちょっと小洒落ていて、人間の機微みたいなものを剥製って言い換えちゃう風刺なり諧謔なりを、象徴的に形象してみせていたりした。

悪く言えば思わせぶりに煙にまいちゃっている。

そういうあたり、ロジカルには隙だらけでご都合主義で、いいかげんっていってもナンセンスには徹しきれないあたり、そのいいかげんさもどこか不徹底なのはご愛嬌という感じで、そこが良くも悪くもレイト戦後時代の小劇場様式という風情ではあった。

だから、小劇場風コメディを楽しめるひとは楽しんでみたらいい。でも、吉本新喜劇の方がロバストなのは間違いないから、楽しめる人はあらかじめ限られているのかな、とも思う。でも、そこに文句をつけてもあまり意味は無いんだろう。

ところで、こういう考え方は筋が良くないとは思うけど、唐突ながら率直に思ったことを書いておくと、ベンヤミンが『ドイツ哀悼劇の根源』で行った作業って、マイナーな戯曲を丹念に読み解きながら時代を解剖するようなことで、そういう作業を、70年代中頃から始まって、80年代以降に様式として固定されていき、ある種のシーンを細々と継続してきた日本の小劇場演劇の型に対して行う余地はきっと残されているのだろうなあという風なことを思わないでもなかった。

どこかで、皮肉さにリミッターがかかっているのは、きっと、劇場という場所を肯定する仕方が問題なのだろうし、それは、喜劇とエッセイの様式が世界解釈の枠として、折衷的に要請される=サブカル性ってあたりに分析の肝があるような気もするけど、そんなのとっくにマンガ評論とかで萌芽的にではあれ誰かが語っていたことかもしれない。

※出演している小林タクシーさんにご招待いただいて、見た。

2010-04-22

[][]鰰[hatahata]『動け! 人間!』(「深海魚」)

昨年のりたーんずでは、神里さんと白神さんが一押し二押しの自分だったので、ふたりのユニット鰰はだいぶ楽しみにしていた。鰰ははじめ「神々」という名前で発表されていたけど、それが鰰に変わることも含めて、楽しんでいた。「深海魚」を一回だけみた。

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一緒に見に行った女性がとても喜んでいて、そのひとはそんなに舞台を見る人ではないので、演技やパフォーマンスのあり方とか、構成や筋立てのあり方だとか、複雑で突飛だったりして、とても親切というわけではなかったけど、伝わる人にはちゃんと伝わる質のものだったのだろうと思う。

僕としては、神里さんと白神さんが組んで、これだけのパフォーマーを集めたら、このくらいにはなるだろうという範囲に収まった舞台だったように思えて、楽しんだけど、冷静だった。

神里さんと白神さんとでは、現状に対してというか現代に対する姿勢というか、アクチュアルさに絶妙な違いがあるような気がする。表面的には、神里さんは切迫感が強くて、白神さんはのんびりしているようにも見える。でも、体感的に現代に向き合っている仕方は、そんな単純な二分法にはおさまらないものがあるのだろう。

いずれにしても、劇場を前提にして、現代的なことをする上で、最適解とはいえないとしても、模範的な回答とは言えるような舞台だったと思う。

これはたぶん、今見ておかないと意味の無いことなのだ。

でも、こういうテイストは、90年代の舞台にもあったよな、という風なことを少し思った。ハイレグジーザスのこととか、時々自動のこととかを思い出したりもした。

とはいえ、先行する物が忘れられているから、新鮮に見えているだけだ、みたいなことが言いたいわけではない。

つまり鰰も、ひとつの王道を行っているし、そういう道は突然ひらけたわけでもないし、直接間接に継承された発想や技法や舞台コンセプトが、しかし手持ちの道具として、まっとうに活用されている。それで十分だということだ。

そういう意味で、こういう類の舞台は、もっと見られて良いだろうと思った。

追記)

澄井葵さんが引用してくれた。考えを触発できたみたいでうれしい。

それだ。 :: お腹痛くて2ステップ|yaplog!(ヤプログ!)byGMO

2010-04-17

[]百景社『しらみとり夫人/バーサよりよろしく』

SENTIVAL!の参加作品ということで、見に行った。

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テネシー・ウィリアムズの短編を二本連続上演するもの。

百景社を見るのははじめて。利賀村の流れという印象は強かったけれど、どこかポップな諧謔みたいなものがあるような感じもして好感を持った。岡崎芸術座あたりと比べて論じられるべき傾向があるよな、という風に思う。

たとえば、『しらみとり夫人』では、女装した男優(村上厚二)が演じるという枠組み自体が、嘘で虚栄を守ろうとする夫人というテーマを示していて、俳優が舞台の上で演じてみせるということ自体が、劇中の夫人が現実から夢の世界に逃避するような惨めさをそのまま皮肉に、滑稽に、示してみせるような仕掛けになっている*1

『バーサによろしく』では、病や貧困という重荷にさいなまれる娼婦の苦悶を、女優(梅原愛子)にバケツを持たせ、そこに水を注いでいって、重さに耐えさせる、というフィジカルな条件において比喩的に示してみせる、という仕掛けになっている。

こうした、ドラマの構造を舞台の仕掛けに転換してしまうという仕掛けは、原作のドラマを括弧入れするアイロニカルな作法であるけど、そういうコミカルでもある落差が俳優自身の課題とドラマ的な構図が一致するという短絡を介して、妙なペーソスみたいなものが生まれてくる。

仕掛けとして、特別斬新というわけでもなく、そういうドラマの仕掛けへの翻訳によって提示されているのは、俳優たちの演技そのものであり、そこに示される演技の理念は、俳優それぞれの個性を一定の枠の中でめりはりをつけて生かそうとするという、むしろ素朴なものだった気がする*2

ただ、それぞれの役者さんが与えられた条件においてのびのびと演じている姿が、ある種の皮肉さをあっけらかんと肯定している風にも見えて、楽しく見終えた。

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*1:公演のちらしは、若い女の横顔にも、老婆の顔にも見えるだまし絵になっていたけど、今思うと、そういう二重写しの構造を一貫した舞台だったということでしたね

*2:その点で、徹底性や現代的状況との向かい方という面で、岡崎芸術座よりも微温的という風な評価も許してしまっているかもしれない

2010-03-31

[]アップリンクで「文(かきことば)」

PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』の二日目を見た。

PLAYWORKS#4 『文(かきことば)1』 | PLAYWORKS岸井大輔ブログ - 楽天ブログ

「文(かきことば)」は、今までのスタジオでの試演会を何度か見てきていて*1、ソロとしては伊東沙保さんが昨年の渋谷で上演したものがひとつの完成形を示していたのだろう。これは、YouTubeでも公開されていて、その達成は多くの人が映像を見ただけで説得されるところがあったと思う。


それで、今回のアップリンクファクトリーでの上演が、文(かきことば)の、劇場でのお披露目といった感じで、今までよりも広い公衆に向けてその達成が試されたわけだが、今までの試演と比べて今回の上演にはいくつか新しいポイントがあっただろう。

ひとつには、試演会には参加していなかった新しいパフォーマーの参加。大道寺梨乃(快快)、立蔵葉子(青年団)、矢木奏の三人。

昨年の曳船ロビーで、「文」の稽古に新しい参加者がいるという噂は聞いていたけど、伊東さんが完成に向かうのとは違う仕方で、それぞれに「文」の方法論を出発点に各自のパフォーマンスを一定の域で達成していたようにおもう。

新メンバーのソロで言うと、大道寺さんのてきぱきとした勢いのよさ、立蔵さんの、ぼんやりとしているようでしかし丁寧に動きが置かれていく感じ、それぞれの質を楽しく見させていただいた。

新しい方法論になじみ始めたところで、自分の演技が組み立てなおされているような、その新鮮さに触れられたのは良かった。

今までのメンバーのソロも、方法論をさらに咀嚼していたり、あるいは完成したものを組み立てなおすような再びの出会いに向けた挑戦が感じられて、それぞれに楽しんだ。

もうひとつは、アンサンブルとしての模索がかみ合い始めていること。

今までも、「文」で複数人での試演はあったし、そのベースになっている「P」では、アンサンブルでの上演はすでになされていたというのだが、今回は、「文」以降のアンサンブルでの創作が動き始めた、その様子が示されていたところを見られて良かった。漱石の夢十夜のいくつかが、ソロとして演じられ、いくつかがアンサンブルとして演じられ、アンサンブルとして完成したものもあり、未完成のものがその途上において提示されもしたのだけれど、その未完成の状態での提示も含め、「文」の方法論が集団創作としてどう機能するのかが、端的に示されていて面白く見た。今後アンサンブルとしての成熟していく姿を見てみたいと思う。

そして、「夢十夜」の「文」の方法論による上演という全体を、未完成なままに示すような様々な演出が施されていたこと。これは、「文」の方法論とは別の角度から、テキストを身振りに転換するという方法論による作品化が完成していない段階での上演という未完成さもふくめて「文」をどのように提示できるかという模索だったのだと思う。

あえて細かく描写はしないが、パフォーマーたちの出入りの仕方、演出家のコメントのさしはさみ方、あるいは、演出家としての出演の仕方、小道具の使い方などなど、複数の小品をたばねるような上演全体の枠組みが、小品それぞれの作品性を閉ざさないようにしつつ、全体として上演を未分化的な場所に開くような逆説的な作品性を持っていたと言えるだろうけれど、それは、小品それぞれのうちにある未完性さを、完結した作品と見せかけないようにするような仕掛けとしてあったかもしれず、そうした上演としての作品性は「文」の演技創造の方法論からするとまったく逆方向からのアプローチであり、あえて完成されていない面を逆に強調するかのような矛盾しさえもする演出であって、そのため、ただ単に困惑したり、単純に未熟なものにすぎないと誤解した観客もいたのだろうと思われる。

このアンビバレツには、逆説的な劇場と演劇への真摯さがあるのだろうし、作品を閉じないことによって作品にするような、こういうわかりにくさを見たとおりのわかりにくさとして受容しておくことが(一見したわかりにくさ受け取りがたさを努力の欠如とか作家の力の及ばなさといったわかりやすい図式で解釈しないでおくことが)、岸井大輔という作家の面白さに親しむ第一歩なのではないかと思う。

*1:「文」の概要については、近代日本語に弔いを(9)−「文(かきことば)」の演劇− - 白鳥のめがねに書いた。弔いというテーマと関連付けた部分はちょっとバイアスがかかりすぎている気もするので、それを差し引いて方法論だけ読み取っていただければ幸い

2010-03-22

[]演劇ユニット「.5」の『ダブル』

.5(てんご)の『ダブル』を見に行った。吉祥寺のハモニカキッチンの屋上テラスで上演という企画。一度、あそこで飲んだことがあったので、改めて親しみ深い時間だった。

澄井葵さんとは岸井大輔さんのワークショップを一緒に受けたのをきっかけに、岸井さん周辺であれこれと会う機会も多くて、この日も打ち上げのあとにいろいろ話したりもしているので、そういう個人的な付き合いが前提にあるということをあらかじめことわっておいた上で、思い出すことを書いておきたい。

出演はひょっとこ乱舞の女優である笠井里美さん(小柄でショートカット、丸顔)とタカハシカナコさん(ちょっと恰幅がいい感じでどっしりした、陽気なキャラクターを感じさせる)の二人で、なかなか好対照だった。

役者二人も気分はオープンカフェといった感じのハモニカキッチンのテーブルに腰掛けていて、まるで観客と同じテーブルを囲んでいるみたいな印象。吉祥寺の裏側のトタン屋根が並ぶような屋上が見えて、猫が屋根の上を渡って行ったりする。春の西日がまぶしく照らしていて、日焼け止めが提供されたりもした。

開演のときにも、観客にそれぞれの役者が自分のプロフィールを語るみたいにして、自分の名前の由来を説明するように話し始めた内容が、自分の幼少期の思い出を語るようなのだけど、どことなく非現実的で、気がつくとその語りがもうフィクションの世界を描いているという風だった。

それぞれの役者の語りが、やがて、それぞれてんで勝手に話すうわごとのように重なり合っていって、ハモニカキッチンの狭いテラスは意識の焦点があわないようなぼんやりとした場所になっている。

それぞれの話は、どこかそれぞれの役者の身の上話みたいでもあるのだけど、小声で二人がお互いに聞いてないように内にこもった語りを続けていくと、観客としてもなんとなく注意が散漫になっていく風だった。

この作品では、声だけの出演で伊東沙保さんとチョウソンハさん。これは、iPodに入れたファイルを澄井さんがそれ用の卓上スピーカーを手に持って流していたけれど、それが散漫になった舞台にとても良いアクセントを与えているようだった。伊東さんとチョウさんの声は、ちょっとテンション高すぎなくらいで、語っている内容も初潮とかに関するちょっとエグイ話でもあって、散漫に身の上話調の話が続いていた空気がそこで一変した。

その音声が流される間にも、二人の役者の話は続いていて、はじめ座ったまま話していたのだけど、笠井さんが立ち上がって、テラスのフェンスによじ登ったりとか、ちょっと大きく動いたりする場面もあった。

語りの内容も、ラグランジュ点がどうのといったすこしダイナミックなものになっていって、二人の語りが、ぼんやりとすれ違いながら、どこかで斜めに対応するみたいな、上の空で意味を取り違えながら進む対話のように、かみ合わないけど言葉は交換されていくような展開になった。

佐々木透さんのテキストも、淡々としているようでいてメリハリがあるようで、日常会話の範囲を微妙にはみ出るかはみ出ないかといった領域をふらふらと辿る曲折のある文脈を、繊細にそれぞれの役者が形にしていっているようだった。

と、抽象的な描写に終始してしまったのは、テキストが繊細で記憶しきれなかったからで、上演台本を文字で目を通してみたかったと思う。

あまりに繊細すぎてまだ人目に触れるには早いという気がしないでもないけれど、そういう繊細さを失わずに、もっと人目に触れても負けないしなやかさを磨いてほしいなあという感想を持って帰った。

「ダブル」 :: お腹痛くて2ステップ|yaplog!(ヤプログ!)byGMO

2010-03-21

[][]ナデガタの美術館開放

Nadegata Insatnt Party(中崎透+山城大督+野田智子)*1による“Closing Museum,Opening Party"で上演された練馬美術館での市民劇「ひらいて とじて その手を上に」を見てきた。

Closing Museum,Opening Party@練馬区美術館 : Nadegata Instant Party

当日の様子がなんとなく写真で紹介されている。

ページを表示することができません。:練馬区公式ホームページ

台本も公開されていて、ざっと見たところ上演されたのはほとんどこれと同じ台本だったと思う。

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これを書いているのは4月18日で、約一ヶ月感想がかけないままだったことになる。いろんな要因があるけど、ひとつは当日パンフレットに小森真樹*2さんが寄せていた「Nadegata Insatnt Partyの挑戦は、一見ちょっととぼけた感じがする。」という(これはタイトルなのか)一文から始まる文章がみごとに作品の本質を語っていたので、とりたててそこに付け加えることもないなと思ったからだった。

一部引用したい。

小森さんは、ナデガタ(頭文字を略してNIP)の活動を理解するキーワードとして「アイロニー」という言葉を挙げた上で、こう続ける。

彼らが送るメッセージの裏側にある意図をも同時に読み込むことが、多層的な理解のために必要となる。一口に言えば、美術の構造的な枠組みの刷新である。この次元では、地域コミュニティを巻き込む「月並みなイベント」も、シナリオにあるような高級文化趣味、経済至上主義や美術館というモダンアートの装置への恨み文句も、パロディックなメッセージとして読み替えられる。コミュニティアートという形式やハイアートへの批判が陳腐化してしまった今、彼らは一見すると単なる「陳腐」と「空虚」を用いて、真っ向からそれに立ち向かっている。

これはまさしくその通りだなと思った。

物語の設定として「美術館開放祭り」の日に練馬美術館が封鎖されるというお話になっているのだけど、美術館の入り口前では、実際に小学校のテントなんかを並べて*3、模擬店みたいなものが出ていて、野外劇が行われる前にフリーマーケットだとか朗読読み聞かせのお店だとか、開放祭りが催されていたりした。そういう、地域を巻き込んだ月並みなアートイベントのパロディみたいなことを実地に行っている中での、野外劇だった。何重にも、現実と虚構の階層が重ねられていて、それ自体、アイロニカルでありながら、虚構的な仕掛けの中に観客を巻き込む仕掛けになってもいる。

たとえば、モダンアートの装置へのうらみ文句とかハイアートへの批判は、次のようにパロディ化される。台本から引用。

* シーン3:美術館封鎖!!

(依田と茶柱が仕切る中、開放祭りも活気が出てくる。)

ガラガラガラガラ===ガシャン

(美術館の正門が祭り会場を遮るように半分くらい閉まる。)

<悪役登場的な曲in>

(学芸員秋山、ミス西山、黒服三人、階段上in)

秋山  「そこまでだー!!」

カナヅチ「おいおい、一体なんだってんだ。」

(三人の黒服がおもむろにバリケードを組み始める。)

秋山  「はい!中止中止!美術館開放祭りは今を持って中止です!!」

プリンス「勝手なこと言い出しやがって、おまえは一体誰なんだ?!」

茶柱  「最近うちにやってきた学芸員の秋山さんです。」

秋山  「そこ!!間違っていないが言葉が足りないぞ!ミス西山!!(パチン)」

ミス西山「先週より、ヘッドハンティングされて超大手美術館より練馬区美術館を立て直すべくやってきた切れ者学芸員の秋山さんです。」

秋山  「そう、それだ!(パチン)」

黒服三人「ヘッドハンティングされて超大手美術館からきた切れ者です。」

秋山  「よし、もっと言ってやれ!(パチン)」

黒服三人「ヘッドハンティングで超大手で切れ者です!」

秋山  「まだまだ!!(パチン)」

黒服三人「ヘッドで超でキレキレです!!」

秋山  「そうだ!私はヘッドで超キレキレだ!!」

秋山一派「うおおおおおおおおおおーーーー!!」

(一同なぜか拍手、結構盛り上がる。)

秋山  「オッホン、ということで、なんなんですかね、この有様は、ここは神聖な文化の殿堂である美術館ですよ!」

茶柱  「秋山さんは来たばかりだからまだ分からないかもしれませんが、ここはみんなに開かれた美術館なんですよ。」

秋山  「は?美術とは元来、選ばれ鍛え抜かれた知性や眼によって育まれてきた。センスと教養を持ち合わせた紳士淑女によって未来は切り開かれて行くものなのです。残念ながら、選ばれなかった皆様にはお引き取り願いましょう。」

黒服三人「さあ、帰って帰って、お引き取りください!!」

カナヅチ「ふざけてんじゃねえぞバカやろお!」

プリンス「そうだ!うちのジュニアのせっかくの宣誓が台無しじゃねえか!!」

(山条in)

山条  「茶柱さん、これは一体何が起こってるんですか?」

茶柱  「ああ、山条さん、大変なんです、秋山さんが、秋山さんが。」

ミス西山「あらあら山条さん、今頃やってきたんですか?」

山条  「ちょっと、秋山さんも西山さんもふざけるのはいいかげんにしてくださいよ!」

秋山  「そうそう、まだ山条くんたちには言ってなかったけど、この美術館、大企業に買収されて来月から別の美術館になることになったから。」

山条茶柱「えええええーーーー!!」

依田  「わわわわ、わ、私の、まも、守ってきた美術館が。。。。」

秋山  「いいか、私は本当の意味でこの美術館を立て直すためにやってきた。こんな遊びみたいなお祭りゴッコをしているヒマはないんだよ!!いいですか、こんな知性の欠片もないママゴトみたいな行為こそが奥深い芸術の門を閉ざさせているのです!お分かりかな?!」

こういうの、当日すこし稽古しただけの人たちが、台本片手に素人芝居していくのだった。

次のようなくだりにも、単純にはいかないパロディの積み重ねがある。

麗子  「ちょっと待って、じゃあ、ここの美術館はどこの会社のものになるの?!」

小中  「はーっはっはっはっは!聞いて驚けよ!」

オレンジ「あの有名企業だぞ!!」

セブン 「行政なんかより、よっぽど文化を大事にしてくれるぞ!!」

秋山  「ズバリ、MIKE(マイキ)だ!」

ジュニア「わあ、あのスポーツシューズの?!」

秋山  「違う!MIKE(マイキ)だ!」

太郎  「あの勝利の女神を由来にしてるという!」

秋山  「だから違う!MIKE(マイキ)だ!!」

治朗  「最近、公園も買ったりしてるという噂の、、!!」

秋山  「違う!違う!違う!まみむめものMIKE(マイキ)だ!!!」

一同  「?」 

(ひそひそ声で、「知らないよね?」「知らない」など皆で話す。)

ミス西山「これだから常識に欠けた人たちは嫌ね。」

小中  「説明しよう!マイキとは『My 木』に由来する、一人一人自分たちの木を植樹して育てることから始まった会社である!」

オレンジ「アメリカ西海岸でエコブームに乗ってセレブ達に大ウケ!!」

セブン 「この春、日本初上陸のエコでセレブな大企業だ!!!」

実際、宮下公園のナイキパーク化という問題が起きているなかで、こういうパロディをしてしまう*4

そして最後には、「美術館開放」を叫びながら美術館になだれこむデモ隊のエキストラの役回りを、無料で見に来た観客が演じさせられてしまうのだった。巧みなナデガタの演出によって、ほとんどの観客は「スローモーション」で美術館になだれ込むという演技を嬉々として演じてしまい、「美術館開放!」のシュプレヒコールを無邪気に叫んでしまった。煽りを受けて、僕も、美術館の受付スタッフの女性たちがちょっと引き気味に美術館開放デモの様子を見ているのを横目でみながら、シュプレヒコールを叫ぶのを楽しんでしまっていた。こういう煽りって、どこかちょっと危険っぽいよなとか思いながら、ある種、群集心理みたいなものにのまれることに固有の喜びってものがあるのだろうなと思ったりした。キャストと観客がなだれ込んだ美術館のロビーでは、そこにあるグランドピアノで、内省的な風な静かな曲が、その興奮を異化するみたいに奏でられていた。

あと、MIKI側に地元住民が勝ったときのシーンもとてもアイロニカルだった。

*シーン7:美術館開放/フィナーレ

プリンス「勝ったぞ!俺たち、勝ったんだ!!」

秋山  「くそおー。。こんなはずじゃ。」

カナヅチ「勝った、勝ったぞー!!」

カンナ 「勝ったときの、オリンピックのやつがやりたい!!」

麗子  「何かしら、メダル?」

カンナ 「ううん、違うの、あれ、君が代。」

山条  「はあ?君が代?!」

郷田  「しょうがないわね、私のオハコじゃないの!」

山条  「やるんですか?!」

郷田  「君が代ダンス!ミュージックスタート!!」

<君が代ナデガタバージョンin>

ダンスチューンにアレンジされた君が代にあわせて、観客も一緒にダンスを踊ってしまうのだった。単純ながら楽しい振りでみんなで手をあげてくるくる回ってた。君が代で。

そういう脱力系なポップさが、右も左もパロディ化して、パーティ的に楽しく盛り上がりながら、どこかできっと、問題を問題として堅苦しく固定化してしまいがちなありきたりの対立という図式とは別の角度から問題を考えられるような視点みたいなものにつながる何かになっていた、のだろうか?

なんというか、君が代だって、ダンスしちゃったら楽しいんだっていうのは、忌野清志郎が「君が代」をリリースできなかったことなんかも想起させながら、とぼけた仕方で問題に向ける視点を複雑化しているみたいでもあるし、あんまり複雑に考えたって仕方ないよっていっているみたいでもあるし、盲点なんていくらでもあるしオルタナティブはいくらだってあるしって感じで、可能性を単純に広げてくれるようなしかたで問題設定の場面をごっそり別の地平に映しちゃったって感じでもある。なにより、あっけらかんと楽しめてしまったってことと、それをあとからいくらでも考え直せるチャンスが開かれていた、なんとなく、え、それでいいの?みたいな違和の種みたいなものがきっちりきっちり埋め込まれたパロディになってた気がする。

小森さんの文章に戻ると、こんなことを書いていた。

NIPはアイロニーと批評性に充ち満ちている。しかし、冷静沈着、冷め切ったニヒリストや熱く煮えたぎった革命家のそれではない。ユーモアとお祭り感(パーティ!)に充たされた「トンがった丸」としてのアイロニーだ。(略)この一見無害な「トンがった丸」は、優しく滑らかに、人々と手を取り合いながら私たちの間に染み渡っていく。

この文章は、当日の舞台裏でいい加減に書かれたって断り書きがついていて、そんなライブ感の筆の走りを感じさせる結句ではあると思う。アイロニーにもいろいろな種類があって、アイロニカルであることをいろいろな方向に展開できるのだろうし、拡散もできるのだろうし、メタの累乗みたいな仕方でつまらなく自閉化することもできるのだろう。その間の区別をきちんとつけるのが大事なのだろうけど、繊細でしなやかで、シェア可能なアイロニーというものもあるのだな、と、ナデガタの試みに初めて触れて、思ったりした。

[]セシル・バルモンド展

ツイッターで盛り上がっている人が居たので、気になって会期末だし、ナデガタの前に見に行ってみた。

「エレメント」構造デザイナー セシル・バルモンドの世界:イントロダクション|東京オペラシティ アートギャラリー

自分としては、ほとんどひっかかるものがなくて、こういうものだったらコンセプトだけ知ればよくてあえて展示を見なくても良かったなというのが正直な感想だったけど、でもそれも自分の偏りというものなんだろう。常設展の脇で展示されてた若手の作家のドローイングの方をむしろ楽しんだけど、作家名も思い出さないくらいな、そんな関わりだった。

*1:ナデガタについては、曳船ロビー周辺で噂を聞いて、次のシンポジウムで話を聞いた。jidokan.netいろんな面で、このシンポジウムが練馬美術館でのイベントにつながっていたみたいだ。シンポジウムについては、次のようにツイッターでつぶやいてた。子ども×アートで地域を開く - Togetterまとめ

*2:小森さんは「現代美術の大衆化とサブカルチャー誌による「アート」の普及」なんて研究をしているあたり報告要旨【小森真樹】 : GrASP! HP批評的な視点の手堅さを感じる。プロフィール小森真樹 - 東京大学大学院 矢口祐人研究室、学部生のときのこんな発表も阿部嘉昭ファンサイト: 「キモポップ」のすすめ(小森真樹)

*3:当日強風であおられたテントが宙に舞いかけるというアクシデントがあって、野外劇の上演が一時中断されていたりもした。観客も含めて、あわてた人々がテントをたたんで、一時中断されていたお芝居が再開された。そのことと、なんとなく批評的に意味づけてみたいと思ったのだけど、結局上手く考えることができないままになってしまった。

*4:なんとなく、この感想を書きにくいなと思っていた理由のもうひとつは、宮下公園のことが気になっていて、しかし、結局一度も宮下公園に足を運ばなかったことになにか自分のなかでひっかかりを感じているからだったのかもしれない。非実在青少年のネタなんかもパロディとしては傑作だった

2010-03-20

[]フランケンズ『スピードの中身』

次の公演を公園に見に行った。

中野成樹+フランケンズ2010新作公演

『スピードの中身』

2010年3月20日(土)〜3月21日(日・祝)

会場 所沢航空発祥記念館

PR・解説 堅苦しいイメージの海外戯曲を、原作に敬意を払いつつ、今の我々の物語に仕上げる『誤意訳』なる手法で注目を集める中野成樹。今回はブレヒトの教育劇に挑みます。誤意訳は若手注目作家の石神夏希に任せ、中野は演出に専念します。

さらに、新メンバー加入後初の本公演!上演場所はなんと飛行機の博物館!!ナカフラを知ってる人も知らない人も楽しめる公演となっております。

中野成樹+フランケンズ『スピードの中身』 - シアターガイド

公演が始まる前に、会場がある航空記念公園をひとまわり見て回った。予約したら、早めに行ってピクニックとかしたらいいよって書いてあったので、春めいた一日公園を見て回ってみようと思った。冒険遊び場には親子連れがあふれていて、その辺の土手で男の子たちが坂を転がる遊びをしていたりして、散歩中の犬が紐に引きずられていたりとか、ピースフル。

所沢航空記念公園 公式ホームページ

日本で初めての、飛行機事故で亡くなった人の碑があった。大正時代に陸軍で初めて飛行機を飛ばしてた頃に、強風に煽られて死んじゃった人たちが、これから軍備を拡張するぞって勢いで顕彰されてた、銅像込みの石碑の類が、墜落地点から移転に移転を重ねて、陸軍の航空部隊にゆかりのあるこの公園に最後は落ち着いたということらしく、そういうものものしい歴史にふさわしからぬファンシーな白塗りの鉄の門がついているのがなんだかいきさつはよくわからないが戦後的風景だった。

そして博物館を見て回った。自衛隊で使われていたヘリコプターや訓練機だとか、展示してある、でっかいかまぼこみたいな形の、なにかテントのようながらんとした建物。博物館の閉館のあと、開演という流れで、あらかじめ博物館に入場していないといけないのだった。飛行機事故で死んじゃう飛行士の話だから、いろいろと航空機の歴史の実際の遺物と、物語内容とが重なり合う演出で、入場券も飛行機に搭乗するときの手荷物とかのタグを模したものになっていて、航空会社みたく「NKF」の三文字が赤くあしらわれていた。この博物館の案内スタッフもフライトアテンダント風の衣装だったしね。

所沢航空発祥記念館 -

舞台スペースは、そんな展示されている航空機の類が背景に見えるような場所に仮設の会議場がしつらえられている風で、テーブルが横に並べられていて、それを半楕円形に客席が取り囲んでいた。博物館の大きな窓からは、だんだんと日が暮れていく公園と、その向こうの所沢の空が見えている。

客入れ中に、最後の調整と言って、リハーサルが演じられていたりする。博物館の入り口にいったん集合させられた観客が会場に案内されるときに、スタッフから「俳優たちが最後の調整をしてますがご容赦ください」とか言っている。演出家があれこれ俳優にダメだししていたりする小声のリハーサルが、いかにも差し迫った本番に間に合わせようとあせっている現場風であって、それがこの後に見るはずの本番をあらかじめ抜粋して示してしまっている。その内容が、差し迫った会議の本番前にあわてて準備をしているという内容である。

というか、そういうところが「ブレヒト的ですよね」ってそのあとのいかにも芝居がかった開演のあいさつのところで俳優によってコメントされたりする。

まあだから、再演されるかもしれないこの作品についてこれから思い出す限り内容を記述するのだけど、それを「ネタバレ」とか言うのは、お門違いもはなはだしいというわけで。

フランケンズでは、海外戯曲をあえて裏切ることによって逆に忠実であろうとするみたいな翻案の仕方を「誤意訳」と読んでいるわけだけど、石神夏希による誤意訳がブレヒトの原作を改変した脚本として仕上げられて、それを中野さんがさらに多少手直しして上演台本になったということらしい。

ところで、原作になっているブレヒトの教育劇というのは、そもそもは上演を目的にしたものではなくて、労働者のサークルとかでお互いに演じてみたりして、何か問題について考えてみるきっかけを与えるようなそういう目的で書かれた寸劇みたいなもので、当然、マルクス主義的な前衛党による革命を目指して、人類が明るい未来を実現するために人々を教育するんだって意図で書かれているものだった。

それを現代風の上演作品に改変するにあたって、石神夏希さんは、航空会社の事件処理会議みたいな場面を設定してみせたって感じだ。飛行士とか整備士とか、負け組っぽい現場スタッフと、勝ち組っぽい経営とかマネジメントとかやってる人たちが二手に分かれて、テーブルについて会議を進行するって形で話が進んでいく。

会議の内容は、大西洋横断を試みて事故死しちゃった飛行士を助けるべきだったのかどうか話し合うというもので、それを事故した飛行士が出てきて話したりするあたりがどう考えても現代劇じゃないわけだけど、会議の雰囲気としては、タイトな時間のなかで結論をださなきゃいけない企業の会議劇みたいな感じになっている。

仕切りなれたマネージャーっぽい女性とか、お追従が上手なスタッフとか、プロデューサー的に力もってるえらいおじさん風の登場人物とか、いちいち、それっぽい。会議では怒鳴って見せて、休憩時間に「君の気持ちもわかるよ」とか懐柔してみせたりするような上司ぶりとかもありそうな風だ。

その手の、会議風景は、多少コミカルに若干誇張されながら、まあわりとお芝居として演じられている感じ。軽妙なスタイル。

大きなポストイットで会議の進行とか要約とか示されたりとか、整備士役のひとがいかにも会社の社員章パスのプラスチックカードみたいに首からぶらさげてるのがツタヤのTカードだったりするあたりの諧謔もポップだ。

会議にはチロルチョコレートの準備が必須だとかあわてたあげく結局チョコは使わなかったね、みたいな小ネタの落ちとか、小道具的にも、身近さを感じさせながら、みんな消費社会の中に居るよねって確認にもなっている*1

飛行機事故の統計だとか、パンの値段とか飢えている人々の統計だとかが示されて、飛行士をひとり救うことに大金を投じても、それがどれだけ社会にとって有益でしょうか?みたいに強引に問われて、人類規模の観点から「それって必要なんですか?」みたいに疑問に投げ入れられていく感じは、まるで「一番であることに意味があるんですか?」みたいにざっくり問い詰めて問題を切り捨てていく、なんとなくぱっとみはそれが効率良い風な様子を見せびらかせてみせる「仕分け」会場のやりとりみたいだ。

会議にはゴールが必要ね、それを忘れないためにキャラクターを作ってみましたとか言ってマネージャー風の女性が「ゴールくん」って名前のぬいぐるみを置いたりする。ゆるキャラとか言って感情労働を煽るような仕方で創造性が搾取される当世の生きかたを風刺してるみたいな、「クリエイティブ」な人たちを俗物として誇張する、どこかキッチュでもある描写は露悪的だった、

飛行士が、僕は空を飛びたいんです、それしか僕たちには無いんだ、それを認めてほしい、みたいに言うのは、まるで僕たちは演劇をやりたいんだ、って言っている姿みたいな感じでもあって、飛行士や整備士たちが、社会的に成功してる風な人たちに引け目を感じながら最後には飛行士を助けなくて良いと言う結論に説得されていく感じっていうのは、まるで社会から「演劇?何の役に立つんですか?」といわれてる役者さんたちの等身大の姿って感じでもあった。

だから、前半の会議がおわってさっそうと勝ち組の皆さんが退場したところで整備士役の俳優のセリフが「あの人たちのクリエイティビティ半端ねえな!」だったあたりは皮肉もマックスで大笑いだった。

そんな、できそうな人たちと、見下される人たちの対比には、「二極化」みたいな話も絡んでいるんだろう。そういう身近ででも切実なお話と、実際に世界では飢えているひとがいっぱいいるのに、演劇とかやってる場合なの?みたいな、常にそこにある問題が重ねあわされているってところで、やっぱりこれは、社会問題を考える教育的な劇ではあったのかなと思う。

それを単純に解釈すれば、いろいろ切羽詰まった状況で、力も足りないし余裕も無いけど、でも、難問を難問としてきちんと真正面から引き受けることはできないのか?みたいな問いを問いとして舞台に造形してみせたものだったのだと思う。

あなたはもう死んでいいといわれて飛行士は拒否するんだけど、会議中、他のスタッフが、あなたはもう死んでいいよ、といわれてはい死にますといって死んじゃうという展開もある。喜劇的な軽妙さが不条理に示されるってあたりも、まあ、20世紀の演劇で良くある手法だったとは言えて、そんな仕方で、性急な「仕分け」的で、新自由主義にサバイブしましょう的なドライさが風刺されているといったところ。それで途中うつぶせて死んだままになってた人があっさり会議終わったら生き返ってくる終幕だとか、死ぬことも仕事することも一緒みたいな感じで、それはそれで月並みな手法だとしても描かれていることは考えていくとなかなか厳しく生権力とかって言葉で語られるような生き死にもすべて数値的に管理されていて市場化されてもいるみたいな行政と市場がのっぺり現実をおおい尽くしてるみたいな現在的な問題に触れている舞台形象として解釈できることだったと思う。

それが、後半、飛行機事故が恋愛遍歴に、生き死にが恋愛の成就になぞらえられて、前半の会議をパロディにしたみたいな展開になる。これは、人類はそもそも利己的な存在でしかないのではないか?とか、そうした見方を押し付けてきて、生き残るためにどうする?みたいに強迫してくる社会のあり方ってどうなの?みたいなわりとまじめな問いを中心に舞台が展開していて、飛行士の高く飛びたいみたいなロマンティシズムと人類の未来みたいなわりと壮大な話がドラマ的な図式をなしてた前半が、彼女にフラれたらそれが同僚と結婚するってことで、そんな話聞いてもあきらめきれないよってうじうじする飛行士はすっぱりあきらめるべきかみたいな議題になっているので、前半でわりと深刻な問いに直面した観客は肩透かしをくらうみたいだった。

最後は、新しい女の子が好意を寄せてくれてるみたいなんだけど、一線越えちゃっていいかどうかは、コイントスで決めるという終幕。このコイントスっていうのが、前半では「結論はコイントスで決めてもいいんだぜ、どうするんだよお前らぐじぐじしてる場合じゃ無いんだ!」ってプロデューサー的に権力とかお金とか握ってるおじさんが負け組みの人たちを恫喝する道具になってたので、この終幕をどう考えるかってそれはそれであれこれ解釈のし甲斐のあるディテールではある*2

こういう前半と後半の対比が、世界とか人類とかの大問題と、恋愛みたいな卑近なことを短絡するっていうのは、それこそセカイ系的なフィクションでは良くある話で、でもそういう仕方でこそ示される今の条件っていうものはあるんだろう。

世界大の問題と卑近な人生の悩みや選択が、でもショートカットされちゃうこと、そこで何か肩透かしをあうように感じてしまう感受性のあり方そのもの、そこでそれぞれの問題を問題として重く感じたり軽く感じたりしてしまうようなものの見方自体、フィクションなんじゃないの?だって、生きかたを考える上で、恋愛感情とか、大事にしたいものだし、そういう気持ちをないがしろにするような社会には住みたくないじゃないか?でもそれってほんとのところどこまで大事なものなんだろう?みたいなぐるぐるめぐる問いのなかに、世界大の問題と卑近で切実な問題をもう一度据えなおすことで、前半のアポリアは、更に難問としての度を増しているようでもあるし、難問を前にして思い悩んでみせることも何の役にも立たない自己憐憫的な所作でもあって、どんな難問にだって、身近なことのように向き合うのが難問への正しい向き合い方なんじゃないか、とか、そんなことを後半の展開から考えたっていいので、とりあえず僕は、世界大の問題を冷静に考えることは、問題を重荷みたいに押し付けることとは違うし、脅迫みたいに性急な決断を不可避なこととして大げさに示すことと、予測不可能な未来に怖気ずに進んで行く事は、どっちも常にこんぐらかりながらも別のことだよねって言えるそういう視点を示してくれる舞台造形だったんじゃないかって思った。

会場が劇場じゃなかったので、残響がすごくて、大声出すと2,3秒待たないと静まらない感じだった。劇場という場所がどれだけ環境を整えられているかを逆に実感させられるのだけど、セリフが響き続ける空間が歴史を蔵した場所でもあって、その残響の物質的な条件が、どこかで歴史とつながる感じが、見ていてとても忘れがたい感慨をのこす舞台造形だったなと思う。

ところで中野さんはブログにこんなこと書いていて、あっさりと大胆に大事なことを言っている。わりと努力した価値が相応に認めてもらえそうな「身体の現前する強さ」みたいな場所には安住してないわけだ。これはそれこそ挑発的で、この考え方についていけない観客とかも多いだろうけど、軽妙な風をしてかなりチャレンジングだと思う。

今回は久々に(?)スカッと了解できる作品を

創れた気がしていて、三渓園の初日前に

「最高傑作が創れたと思う!」と宣言したほど。

役者は座り芝居が多くてストレスたまるみたいで

「……はあ……そうっすか……」って感じでしたが(笑)

まあ今回は確かに

身体を無視して言葉のロジックだけ、の芝居だったから、

それを「最高傑作!」とか言われてもねえっ、て話か。

でも、個人的には「いま、身体を無視してやったぜ!」って気持ちで、

そこがなんだろう、もう無茶苦茶に好きだ。

身体身体うるせーから、昨今。ってほどでもないかもだけど。

でもきっと身体、無視していくだろうな、今後も。

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あと語意訳担当の石神さんはこんなこと書いてた。

ブレヒトの原作を読んだとき思ったのは、「悲壮な覚悟でボケつづける道化のようだ」ということで

それはまさに「ツッコませる」(批評させる)ということなのだけれど、

誤意訳というのも、「誤」と断っている以上、ある種の「ボケ」だと、私は思っています。

だから「ブレヒト」を「誤意訳」するのは、ボケにツッコむんだけど、そのツッコミもまたボケている、

という状況に似ていると思います。

だから、ブレヒトをやっているというより、どこまでも誤ブレヒトをやっているということにしかならない。

だけど誤ブレヒトであること自体が、すごくブレヒト的なんだと思う。

その「ボケ」は、ものすごく真摯で本気な「ボケ」なんだけれど。

というか、どんな「本気」もそんな風にしか、他人を当事者には出来ないのかもしれないな。

誤ブレヒト/スピードの中身・その2 - ペピンブログ

*1:そういえば、飛行機事故と風というイメージが、世の中の空気の向きみたいな話と重ねあわされていたのも、世相という面からは興味深いポイントだったかもしれない

*2:たとえば、熟慮の上での決定にこだわるよりも、偶然にまかせるような一見したところの浅はかさに身を投げ出すことに逆に自由があるのかもしれないみたいな話をあれこれ考え込んでみる余地はいくらでもある

2010-03-14

[]『橘館』で『ユリ 愛するについて』

『橘館』で見ました。

コミュニティシネマ『橘館』ブログ 私も作品紹介2『ユリ 愛するについて』

アート系のプライヴェートなドキュメンタリーとして、手法としては飛びぬけているというわけでもないかもしれないけれど、ゆるやかに時系列を追いながら、説明的になりすぎないように、様々なショットを重ねていく感じは、繰り返される一時的な出会いと別れの間に、決定的な出会いと別れが重ねあわされるような、記憶の重層する姿を造形しているみたいでもあり、監督自身が友人の人生の決定的な出来事をそばに立ち会うようにして記録することで、単なる記録でもなく、単なる作品でもない、ひとつのパフォーマンスとして、監督自身の関与を感じさせもして、カメラの手前に出演者から呼びかける声の向きが、観客の側にも響くようであって、そうしたプライベートな空間の記憶や身体性を刻み込んだ映像作品なので、こういう小さな映画館で、町の音も聞こえるような場所で見られたのは、逆に良かったかな、と思う。液晶プロジェクターはお世辞にも良い画質ではなかったし、スクリーンも白い布を張った手作りなもので、学園祭の上映会を思い出す雰囲気ではあったけど、それが雰囲気としては、ぴったりと合うものだったと思って、帰った。

[]渋谷友香理展@スタジオ・シェッラハル

橘館に行ったついでに、岸井さんの墨東まち見世ロビーにかよってちょっとおなじみになったスタジオ・シェッラハルで、「小火(ぼや)」という名前でロビーでも活動していた渋谷友香理さんの展示を見に立ち寄った。

no title

403 Forbidden

ほんの少しの光が、隙間からもれたり、木箱のオブジェのような手作りらしい照明器具からもれていて、ほとんど真っ暗な部屋の中に入るときには「目が慣れるまで時間かかりますよ」といわれる。部屋をうろうろすると、何か糸でぶらさがっているものがあるのに気がつく。だんだん瞳孔が暗闇に慣れてくると、うすぼんやりした部屋のなかに、いくつもの小さな人型がつるされているのがわかってくる。それは、厚紙か何かを同じ形に切り抜いたもので、なにかアイコンみたいに定形化された人の形で、腕や足は模式的に出っ張りや凹みとして示されているだけで、頭はとがった三角形でその頂点が紐で天井につながっているらしかった。歩くと、影が人形たちの見え方を変える。暖房の気流や、鑑賞者の動きに応じて、モビールのように、ぶらさがった人型がゆらゆらと向きを変えたりして、人の形が見えたり見えなかったりする。とてもシンプルなアイデアだけど、緻密に構成された空間は、とても見ごたえのあるもので、視覚の縁で作品の肌理に触れ合うどこかスムーズな感触が暗い透明な実質みたいなものとして胸に残った。

[]「増山士郎作品集 2004〜2010」@現代美術製作所

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シェッラハルで話していたら、たまたま来ていたデザイナーのMさんが「とてもよかった」というので、行ってみることにした*1

何の前情報もなしで見に行ったけど、いろいろ社会との関わりかたをコンセプチュアルというかドキュメンタリー的にというか、切り取った作品だった。

まるで風俗店の看板みたいな「恥ずかしい姿見放題」という立方体のピンクの看板があって、のぞき窓があって、そこをのぞくと、のぞいている人の顔がモニターに映る。それを街頭に設置した様子がビデオで映し出される、とか。小包の中にビデオカメラを仕込んで、宅急便で送る間、その様子を全部録画するという作品では、実際に録画された画像と、送られた木製の箱が展示されていたりとか。アーティストインレジデンスで海外にいることが多い作家が、日本に一時帰国する間に、夜間のアルバイトを探す様子のビデオや関連する書類の実物と、それで見つけた某宅急便会社の住み込みの寮みたいな場所を再現した一室を展示した作品だとか。

わりと、今自分は、派遣アルバイトで食いつないでいる不安定な状況なので、いろいろ身につまされた。こういうサバイバルをしているアーティストもいるんだなあという感慨。まさにサバイブ系社会派アートって感じだった。

*1:なぜかスタジオとギャラリーの間を自転車借りて移動

2010-03-13

[][]コミュニティーシアター『橘館』のイベントを見る

岸井さんが住み込んでいたロビーはそのあとどんな様子かなと思い、先週もダンスタワーに行く前に立ち寄ってみたけど、そのときはシャッターが下りていて、イベントと上演の合間で、知り合いのスタッフとちょっと話をしただけだった。マンモス公園に立ち寄って(初めて行って、雨露にぬれたおっきい滑り台に登って、滑って濡れた)押上のダンススタジオまで裏通りを歩いていったりもした。

今日は、岸井さんが司会のトークショーがあると聞いて、PULLの中継とミーティングのあと、出かけてみた。


<ゲスト>

塩田時敏(ゆうばり国際ファンタスティック映画祭)

藤岡朝子(山形国際ドキュメンタリー映画祭)

矢田部吉彦(東京国際映画祭)

<МC>

岸井大輔(劇作家)

<時間>

15:00−16:30

<場所>

キラキラ会館(橘館よりすぐ!喫茶店ぺロケの前)

コミュニティシネマ『橘館』ブログ 【イベント詳細】3/13(土) 『ビール片手に井戸端会議』

かなり豪華な人選ですよね、あの細い路地の商店街の小さな映画館にしては豪華すぎるくらい。それぞれ国際的にも知名度の高い映画祭の運営裏話とか、お金の苦労だとか、それぞれの土地とか状況との向き合いかただとか、細かく具体的な話がうかがえた。

岸井さんは、映画祭を始めるときの苦労のことを聞きたがっていて、それはでも、それぞれの映画祭の概要をコンパクトに語る話につながってもいたのだけど、軽妙な司会振りに、ゲストのお三方もパフォーマーとしてリラックスして演じていた風だった。

街の人を呼びたい自主的な映画館として、メジャーな映画を見たいという要望もあるって話にたいして、ゲストのみなさんが「やりたいことを貫くことが大事」という見解で一致していたのが印象深い。そして、それをいかに継続するのかが問題である、と。

藤岡さんは岸井さんに街のひとたちから声がかかるのを印象深く見ていたらしくて、「これが大事だ」と、何かヒントをもらったようだった。トークショーのあと、藤岡さんと岸井さんが話しているのに立ち会ったのだけど、岸井さんがリミニプロトコルとかドキュメンタリー演劇の話をしてたのに、藤岡さんはぴんときてないみたいだった。リミニプロトコルもNHKで放映されたりしてわりと知られてるのだとおもっていたけど、まだまだ演劇の世界の外には広がっていないんだな、と思う。こういうところで、もっと横断的に広報する余地は、いくらでもひろがっているってことだ。

ジャンルの枠じゃなくて、テーマとか、手法とかで、表現活動や作品はいくらでもリンクできるだろうし、それが可能なツールはもう、誰の目の前にもあるはずだ、と思う。使い方の問題だけだ。頭を使おう。試みよう。

コミュニティシネマ『橘館』ブログ ”映画祭”の映画祭 スケジュール詳細