バイテン新時代

 「東京8x10組合連合会」という奇妙な集まりがある。名前だけ聞くと、ハッピでも着て酒樽をたたいているようなイメージだが、中身は全然違うらしい。
 その「第2回」という写真展が先頃元麻布のギャラリーで開かれた。これがすごかった。バイテン(8x10)で撮った写真ばかりがズラリ。なんと105枚もあったのだそうだ。大半が銀塩プリントだから、迫力満点。いまどき8x10を焼く、伸ばすというだけで、大変なことである。
 メンバーは10人前後だが、プロもアマも、またラボの人もいる。カメラも様々らしく、中には手作りみたいな機材で、スナップに近い撮り方の人もいる。元はネットのおしゃべりグループが、大判の話で盛り上がっているうちに、実際に撮ったものを並べてみようと、いわばオフ会のノリなのだという。(8x10組合写真展の案内状は、大きさもバイテンというこだわり。会場での写真は、無名Field 5x7、Darlot RR、TX)
 だから、ニックネームでさんざんネットでトークしていながら、会場で初めて顔を合わせて、「初めまして」なんてのもあったとか。まさに現代だが、その接点がバイテンというのがなんとも、かんとも。
 しかしグループ紹介には、「お気軽なデジタルフォトの時代に、あえて総量10キロ以上の重くて大きい機材を担ぎ、不便さや苦労を厭わずに‥‥オトナ趣味に興じる写真家達の自由な集まり」と、ちょっと粋がっている風である。

◆花鳥風月禁止◆
 自らの作品を「独自の視線で切り撮られた、一癖も二癖もある」と、けっこう自信たっぷりだ。「唯一のルールは『花鳥風月』『山紫水明』は撮影禁止」というのが気に入った。これはいい。いま大判が置かれている状況に、ズバリ切り込んでいるからだ。(8x10組合写真展から、勝原保さんの作品)
 これまで大判といえば、高画質と静謐な画像が売りで、展覧会を見ても風景や静物が主である。むろんポートレートもあるのだが、おそらくはライティングの作法が手にあまるのであろう、アマチュアで手がける人は極端に少ない。結果として「花鳥風月」と「山紫水明」の世界なのである。
 この春、上野で大規模な大判写真の展覧会があったので、大判仲間を誘って見に行った。セミナーものぞいてみたのだが、もっぱら大判フィルムの高画質の説明や、機材の解説、さらにアオリがどうとかばかりで、大判をやってるわれわれですら、ちっとも魅力的には聞こえなかった。
 また、展示された作品の画質にしてもせいぜいが4x5で、バイテンは少なかった。中には「これ大判か?」というようなものがけっこうあって、よくよく聞いてみるとなんのことはない、オートの中判カメラで撮ったものを拡大しているのだった。
 そして何よりも、ひたすら美しい「花鳥風月」と「山紫水明」のオンパレードに辟易して、ほうほうの体で逃げ出したのだった。有り体にいえば退屈だったのである。(大判写真展を逃げ出して都美術館前で。無名Field 5x7、Darlot RR、TX)
 たしかに大判とはそういうものであった。だが、最後の拠り所である高画質の足下はいまや崩れかかっている。フルサイズのデジタル一眼レフの画質は、もう4x5を凌駕したともいわれているのだ。にもかかわらず展覧会は、これにまったく無頓着、危機感のかけらもなかった。
 なにしろ相手は速写、連写ができるうえに、高性能ズームレンズもあるのだから、この写真展のバイテン以外の写真をすべて置き換えてしまうことだって不可能ではなかろう。これでは、デジタルを手にした若い人たちが興味をもつはずがない。
◆プリントが勝負どころ◆
 そうした大判のひとつの現実に暗澹たる思いでいただけに、「8x10組合」の問いかけは新鮮だった。事実並んでいる作品は、それぞれが抱いているテーマや視点で自由に被写体を追い求めている。バイテンという扱いにくい機材へのこだわりを除けば、普通の写真と変わらない。まことに自然体である。
 また、プリントにするというのも、デジタルに対抗する強烈な意思表示である。密着だろうと伸ばしだろうと、銀塩プリントの質感と色(モノクロ)は、プリントでしか得られない。つまり写真展でしか見られないものだからだ。その意味で、プリントは大判の最後の勝負所ではある。いまのところバイテンにはまだ、なにがしかの優位がある。
 たとえバイテンといえども、ひとたび印刷やウエブ画像になってしまえば、大判の優位はほとんどなくなる。プリントをあきらめてしまったわたしの写真なんぞは、「苦労して撮ったんだな、偉い、偉い」というだけのことになってしまっている。
 だから、バカバカしくも苦労して撮った上に、プリントまでしているというのは、現代のドンキホーテ。しかも、遠からず自分たちでプリントする場所も作るという話だ。さらには、潜在的な大判愛好者は少なくないということも聞く。もしバイテンでこれらを糾合できたら、なんと痛快なことだろう。デジタルに立ち向かえるバイテン運動の拠点になるかもしれない。
 デジタルの方も限界に近いはずだから、まだしばらくはこの遊びは続けられるだろう。が、いつまで保つかは、まことにおぼつかない。デジタルの高画質が4x5と肩を並べているとなれば、8x10まではわずか4倍でしかないのだ。どう転んでも瀬戸際である。
 むしろ、いま本当に大判が問われているのは、ここから先であろう。いまから本気で最新のデジタルカメラと張り合うつもりでないと、ある日突然、ただのドンキホーテになりかねない。「何を撮るか」という、写真としてのおおもとに話が戻るからである。
 しかし張り合うといっても、大判だけにできて、デジタルには撮れないもの。そんなものあったか? この問いはかなり厳しい。
 もっとも簡単なのはソフトフォーカスであろう。が、このグループはそんな安易な道とは無縁のようだった。作品を見る限り、やってること考えていることみな違っていて、バイテンであってバイテンでない、そんな独自の写真を作り上げる気概に満ちているように見えた。(8x10組合写真展から、根本豊治さんの作品「宇田川町」)
◆よくぞ作ってくれた◆
 バイテンで撮るのは気持ちのいいものである。一時期機材の重さに音をあげて、メーンを5x7にしたことがあったが、5x7のフィルムがご臨終に近くなって、また戻ったといういきさつがある。戻ってみると、やっぱりバイテンなのである。
 とりわけ巨大レンズだ。持ち歩きなぞ考えずに、写場用に作られたでっかいポートレート・レンズは、小さなレンズとはまったく別の存在である。収差もあればボケもゆがみも、なんでもありのこれらを受け止められるのは、バイテンの大画面だけである。
 また、小さくてもイメージサークルが巨大なレンズは、大きな画面をいっぱいに使って遊べるのが値打ちだ。バイテンギリギリの超広角だって、全画面で受け止めてこその超広角である。レンズ遊びの幅の広さ、奥の深さでバイテンの右に出るものはない。これに較べると、35ミリ判のMTF曲線がどうとかこうとかなんて、チンケな話である。
 だから、撮れば撮るほど、遊べば遊ぶほど、よくまあ作ってくれたもんだと、アメリカ人に感謝したくなる。前にも書いたが、アメリカ人はみなポパイで、でっかいこと重いことをいとわない。さらにその合理主義が生み出した撮り枠の規格とスプリングバックによって、この100年変わらずにバイテンを遊ぶことができるのである。
 いまの人には意外だろうが、戦争に負けるまで日本にはアメリカ・サイズの大判フィルムはなかった。4x5も8x10も知らない。カメラがなかったのだ。
 それまでの日本の大判カメラは、街の写真館がイギリスサイズ、プレスもイギリスサイズと一部ドイツカメラの混在だった。ごく少数スピグラはあったが、ロールフィルム用のミニチュアグラフィック。プレスが使っていたグラフレックスもイギリスからの輸入だから、バックはイギリスサイズだった。
 つまり1945年まで、日本人はスプリングバックを知らなかったのである。その簡便さと合理性は衝撃だった。サイズが同じなら撮り枠はどのカメラにでも合う。こんな簡単なことが、ヨーロッパのカメラではできなかったからである。だから、占領軍と従軍記者が持ち込んだスピグラは、たちまちプレスの標準装備になったのだった。(下はスピグラの4x5時代を代表する報道写真。1960年10月12日浅沼稲次郎社会党委員長が右翼少年に刺殺された。毎日新聞の長尾靖(故人)が、これでピュリッツァー賞をとった。写真のスピグラは珍しいミリタリー、城靖治さん所有)


◆スピグラが消えても4x5は生きた◆
 サイズはまだ4x5である。それで十分だった。それまで写真館の標準はイギリスのハーフサイズのキャビネで、学校の記念写真なんかはみな密着焼きだった。4x5はキャビネよりは小さいが、キャビネの伸ばし機で伸ばせる。日本で大判といえば、「シノゴ」というようになったのは、ここからである。
 これで面白い話がある。朝日新聞の東京本社写真部の35ミリ用フィルムケースはなぜか、4コマ切りだった。4枚x10列のケースを2列づつ折り畳んで納めるボール紙のホルダーが標準で、保管ケースもすべてそのサイズに作られていた。しかし、なぜそうなったかと聞いてもだれも知らない。
 この方式は、朝日が有楽町から築地に移ってからも続いた。新しいビルの備品もそれに合わせて作られた。その頃ちょうど大判を撮るようになって、はじめて理由がわかった。ボール紙のサイズは4x5フィルムのサイズだったのである。
 戦後スピグラの4x5で始まったホルダーは、35ミリ判との共存時代を経て、4x5が消滅したあとも生きていたのだった。朝日の写真部員たちは、それと知らずに戦後を築地までひきずっていたわけだ。デジタル化で、4コマ切りの機材が姿を消したのは、つい2、3年前のことである。
 4x5のインパクトがいかに大きかったかを示す話だが、5x7や8x10が一般的になるのはずっと後のことである。昭和の40年ころまでは、建築写真や複写、製版、写真館ポートレートではまだキャビネの乾板が使われていた。報道写真のようにスプリングバックで素早く撮る必要はないから、これらがアメリカサイズに置き換わるには時間がかかった。
 結局、高度成長期である。アートや商業写真で高画質が求められるようになって、建築写真はキャビネが5x7になり、スタジオ写真はバイテンになった。しかし、これらはやっぱり主流にはなれなかった。日本人には大きすぎたのである。
 バイテンを一番多く撮ったのは、おそらく商業写真館であろう。結婚式などの集合写真やちょっと凝ったポートレートには、バイテンの密着がぴったりである。また5x7も、小人数の集合写真くらいなら密着で十分だ。ただ、カメラが不自由だった。
◆ ポパイになれなかった日本人◆
 本家のアメリカには、日本人の気を引くカメラはディアドルフしかない。ディアドルフは頑丈だが基本的に持ち歩きカメラだから、スタジオ用の重量レンズにはこころもとない。といって、持ち歩きにはポパイの腕力が要る。日本人のモノサシに合わないのである。
 そこでバイテンでは、写真館用にはタチハラやナガオカがアンソニー・タイプを作る。あるいはジナー、アルカスイスになった。これらは、アマチュアがお遊びで扱えるものでもなく、道楽で買える値段でもなかった。一方で持ち歩き用には軽量のものも作られたが、撮影機材一式を含めると、よほど腹を据えないと持てるものではない。
(19世紀の8x10で撮影。光線漏れでホントの古写真のようになった。Meagher Tailboard 8x10、Smedley RR 12x10、TX)
 高度成長期にアメリカへ行った写真家の多くが、ディアドルフのバイテン(V8)を抱えて帰って来たものだった。普段はライカで撮っている連中までが手を出した。一種のステータスだったのである。
 いま、そのカメラがどうなったかを聞いてみるがいい。押し入れの中で眠っていればまだいい方で、ほとんどは中古市場へ流れて、別の機材に化けてしまったはずである。それらは次にアマチュアに渡って、なかばコレクションになった。図式としては、いたずらにディアドルフの名声を高めて、カメラ屋を儲けさせただけだったのである。
 結局日本の大判は4x5が主流だった。ごく一部の人たちをのぞいて、ポパイにはなれなかったのである。またバイテンが遅れて入ってきたときにはもう、大判そのものが衰退期に入っていたのも不幸だった。だから、それでもバイテンというのは変わり者扱いになった。
 そして4x5となれば、まずはグラフィック、アオリならウッドビュー、高級品ならリンホフという流れ。どのみち「花鳥風月」「山紫水明」に行き着くのである。
 こうして考えると、「8x10組合」というのは、ひょっとして一種の革命なのかもしれない。まずは果敢にポパイを名乗り出た人たちに祝福を送ろう。大いに粋がって暴れ回ってもらいたいものだ。
(8x10組合写真展から、田村政実さんの作品「夏・空」)
 バイテンの遊び方にはまだいろいろある。幅も広いし奥も深い。これについては、また回を追ってじっくり語ろう。