○○○のジャンヌダルク_愛国心について

日本人って、○○のナポレオンとか、○○銀座っていうのが、好きみたいですね^^。
わたしも、こういうのって、どこか庶民的でホノボノとしたものを感じる場合もあり、少しだけ好きだったりもするんですが……。


リュック・ベッソンの『ジャンヌダルク』をいろいろと検索しているうちに、「●●●市のジャンヌダルク」という市議のサイトを見つけました。

この市議は、ジェンダーフリーが激しくお嫌いなご様子。
わたし自身は、ジェンダーフリーについては、どっちでもいいんじゃないのぉ? というかんじ。
わざわざ、理屈っぽく規定しなくたっていいのに…って。
特に、ジェンダーフリーを擁護する側や反対する人たち、どちらの側の考えでも、極端に偏ったものにはついていけません。


「また、『●●●の何とか』ですか……、えっと、ジャンヌが火あぶりの刑になった表向きの罪状は、『異性装』の罪なのに、何故、あからさまな反ジェンダーフリーを旗印として掲げる市議が、『○○○のジャンヌダルク』などと自称するのだろうか? よく判らないなぁ、この人…」
と思いつつ、そのサイトで、この市議が、ジャンヌダルク愛国心について、書いた文章を挙げている“らしい”スレッドを、何げに読んでいるうちに、わたしって、他人のサイトに書かれていることに、真っ向から反論するカキコは、いままで一度もしなかったのですが、なにやらコメントをしたくなり、一旦デスクトップに戻りキーボードを叩き終えて、さて、書き込みをしようと思ったら、スレッドが見つからなくなってしまった……。

所在ない気持ちになってしまったので、わたしのブログに そのまま貼りつけることにしました。


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>彼女の生き方に賛同できる点は「愛国心」。

ん〜、どうなんでしょう?


2冊のジャンヌ・ダルクの本(白水社と、たしか岩波)を読んだかぎりでのことですが、彼女は、国に帰依しているわけではなかったようですよ。彼女が依りどころとしていたのは、クリスチャンとしての信仰心であって、愛国心とはちょっと違うように思います。


火あぶりの刑で、彼女が最期に発した言葉は、「国王さま!」でもなければ、「フランス万歳!」でもありません。
もちろん、ゾルゲが処刑の際に叫んだとされる「共産主義万歳」でもありません。(少笑)
その言葉は「イエスさま」だったようですね。


そもそもジャンヌは、彼女の影響力が強まるにつれて、フランス国王から疎まれるようになり、彼女が戦闘中、イギリスに捕らえられた際には、フランスは彼女のことに無関心を装い、そのまま敵国の手で処刑されるのを期待していた。


つまり、フランス国王=フランスは、田舎育ちで疑うことを知らないジャンヌの純朴な信仰心を利用して、利用し終わったところで、持てあまし気味になった彼女を見捨てた。ということです。


興味深く思うことがあります。それは、共産圏の金正日や、ファシズムヒトラーも、自由主義圏の国でさえも、たくさんの人びとが愛国心について語っている、ということです。
左寄りの国、右寄りの国、民主主義圏の日本でも、それぞれの政治体制のなかで
「自分たちが属している国を愛しましょう」
と説いている人がいるみたい。


どうやら、愛国心というのは、『たったひとつのもの』ではなく、国の数と同じだけ、いろいろな種類の愛国心がありそうですね。
もしかしたら、人の数だけあるのかもしれない…、とも思うのです。


わたしは、「ひとりひとりの自由と責任が存在している国を愛する」という愛国心ならば納得できるかも、と思いますが、純粋=無条件と定義されかねない考えの元で国を愛す、という類の愛国心に、心を奪われるべきではないと思っています。
こういった愛国心というのは、権力を握っている人が国民を無条件で服従させるための、道具でしかないように思います。


そして、不思議に思うことは、
「より強く、こういう愛国心を自国民に説く国ほど、他の国と憎しみ合い、戦争をも辞さない、そしてほんとうに戦争をしてしまう傾向がある」
と思えるのです。
なぜそうなってしまうのでしょう?


愛国心にまつわることで、とても大切なことは、他から命じられるまま、無条件に何の疑いもなく、自分の国を愛するのではなく
『どういう状態の国を、愛すべきなのか?』
ということではないでしょうか


「たったひとつの愛国心に、心をゆだねなさい。何の邪推もせず無条件で国に従うことこそ、美しくも純粋な若者のあるべき姿だ」
という理屈に従うのは、とても危険だと思うし、決して従ってはならないと思います。
そして、こういった一見して清らかに見えることの裏にある真意を見抜くことが、民主主義を愛する人たちひとりひとりの責務だと思うのです。


ここ数年来、太平洋戦争の映画上映やTVを、多く目にするように思えます。
わたしには、これらの本当の企画意図を知るよしもありませんが、こういった映画のなかには、若い人の気持ちが
「純粋な若者の心を悪用するなんて! 二度とこのような犠牲者を出してなるものか」
ではなく、感涙にむせびながら、
「昔の若い人は、純粋で・美しくて・ステキだな。わたしもこういう人たちを見習って、余計な言い訳をせず、桜の花びらがヒラヒラと散りゆくように、お国のために命を捧げよう!」
というものに、すり替えられなければいいのに…、と心配してしまうものもあるように思えてしまいます。


人は、特に若い人は『純粋』という言葉に弱いのでは?
ですから『愛国心』という、その場に応じて都合のよい定義づけができてしまう、あいまいな言葉をとおして、知らず知らずのうちに

純粋→無条件→絶対服従

という図式に、引づり込まれないでほしいと思います。


なにやら、純粋なジャンヌダルクの名前を悪用した為政者と、相通じるものを感じてしまうのです。


よろしければ、これも読んでください。

http://d.hatena.ne.jp/yasmin2/20051215
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