「バブル」

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最近、一躍、時代の寵児化している田中森一氏ですが、おもしろそうだな、と思い、購入して読み始めたところ、やはりおもしろくて、一気に読んでしまいました。
ベストセラーになっている

反転―闇社会の守護神と呼ばれて

反転―闇社会の守護神と呼ばれて

については、以前、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20070702#1183309010

でちょっとした感想を述べたことがありますが、「反転」を先に読んだ上で、「バブル」を読んだほうがわかりやすいでしょう。
「バブル」を読んでいて感じたのは、田中氏の優れた能力、人間的な面も含めた幅広さ、奥深さや、このような優秀な人物が、汚辱にまみれたまま塀の内側に落ちて行き、このまま消えてしまいかねないのは惜しい、ということと、そのような優秀な人物が、なぜ、つまずき、陥穽に落ちてしまったかがよくわかるな、ということでした。
杓子定規な言い方にはなってしまいますが、弁護士等の法律家と、そうではない、いわゆる事件屋等の、本質的な違いは、前者が、法律や法律に基づく諸制度の枠内で紛争を解決すべき立場にあるのに対し、後者には、そういった枠組み、制約は無関係である、ということでしょう。前者による紛争解決には、その意味で限界もあり、まどろっこしくもあるのに対し、後者のほうが、場合によっては目覚しい成果が達成できる場合もあるでしょう。しかし、弁護士等の法律家が、上記のような枠組み、制約を踏み越えてしまえば、やはり、立場をわきまえていない、ということになり、様々な落とし穴の中に自ら落ち込んで行く、ということになってしまうと思います。田中氏の場合、そのような一線を踏み越え、非常にユニークな(良くも悪くも)存在となることで、一世を風靡し経済的にも大きな成功を収めましたが、同時に、無数のリスクに取り囲まれた状況に自らを置いたことにもなり、そのような状況の中で、司直の手に落ち実刑判決の確定、収監を待つしかない立場に追い込まれてしまった、と言えるように思います。
「バブル」における田中氏の発言も、多少、誇張等も見受けられなくはない面があり、全面的には真に受けられませんが、かなり真実、核心を突いた点も随所に見られて、こういったブラックな、あるいはグレーな世界を垣間見てみたい、興味がある、といった人には参考になる1冊、という印象を受けました。

米国大使館:10年ぶり借地料支払う 日本側値上げに合意

http://mainichi.jp/select/today/news/20071211k0000m010089000c.html

財務省などによると、同大使館の借地料は周辺地価の上昇に合わせて2度改定し、83〜97年までは年252万円だった。98年に3度目の値上げを打診したところ、米側は「そもそも1896(明治29)年に交わした契約文書に値上げの規定はなく、大幅な値上げには応じられない」と、100年以上前の古文書を引き合いに出して支払いを拒否していた。

こういう無茶なことを言っていたとは知りませんでした。いまだに、日本を「占領」しているような気でいたのでしょうか。自らの国益に沿う場面では、日本に対し歯の浮くようなことを言ったりしていても、自らの懐が痛むような場面では、100年以上前の「古文書」を持ち出してくる、そういう国でもある、ということを、米国に飼い馴らされた「親米派」も、多少なりとも認識しておいたほうが良いでしょう。

成田ゲリラ沈静化を考慮、県収用委氏名を19年ぶり公表へ

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20071210i515.htm

千葉県収用委は1988年、成田空港の用地収用の前提となる審理の再開を巡って、当時の会長が襲撃され重傷を負ったほか、委員への脅迫が相次ぎ、全委員が辞任する事態に発展。同年から04年12月に現在の委員が任命されるまでの間、全国で唯一、委員不在が続き、機能停止状態となった。04年の委員任命後も、土地収用法で原則公開の審理が非公開となるなどしていたが、今年6月、審理の公開に踏み切り、さらに今回の氏名公表で19年ぶりに正常化されることになる。

上記の襲撃事件では、確か、弁護士でもある会長が襲われて、一種の見せしめのような形で手か足(あるいは両方)の骨を、狙いすましたように折られていたはずで、テロとしてはかなり残忍な部類に入るもの、という印象を持った記憶があります。時代が移り変わり、成田空港を巡る状況も大きく変わった、ということでしょう。

力士死亡、年明けにも元親方ら立件へ

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20071211/20071211-00000046-jnn-soci.html

警察は現在、致命傷を特定するために遺体の組織片を名古屋大学に持ち込んで再鑑定を行っていて、その結果がまとまり次第、年明けにも兄弟子数人のほか、当時の親方についても傷害致死の疑いで立件する方針です。

この種の鑑定を行う場合、既に判明している事実関係をより固めるためのものである場合と、鑑定の結果によって、身柄の取り方や処分結果が異なってくる場合があります。本件では、鑑定がどのような位置づけになるか、よくわかりませんが、事件自体が立件不能になる、といったものではないようです。
事件として、いよいよ重大な局面に差し掛かりつつある、という印象を受けます。

判決要旨 マンションへの政党ビラ配布

http://www.chugoku-np.co.jp/NewsPack/CN2007121101000527_Detail.html

以前、1審の無罪判決について、

http://d.hatena.ne.jp/yjochi/20060828#1156731480

とコメントしましたが、やはり、控訴審では有罪になりましたね。こういったパターンが、裁判員が関与する事件でも繰り返されるのではないか、という予感がますます強くなってきます。
控訴審判決の最大のポイントは、おそらく、要旨の中にある

管理組合の理事会は、区の公報に限り集合ポストへの投函を認め、そのほかは禁止と決定。玄関ホールの掲示板にA4判、B4判の張り紙が掲示されている。
弁護人は、政治ビラは政治的表現の自由に基づき、居住者の知る権利の対象にもなることから、投函の禁止は、住民の総意や管理組合総会の決定が必要と主張するが、民間の分譲マンションであれば、区分所有者らが手続きを含め自由に決定する権利を有することは明らかだ。住民の異論、苦情はなく、理事会の決定は住民の総意に沿うものと認められる。

と思われ、管理者による立ち入り禁止の意思が明確に存在し、かつ、表示もされている以上、それに反する立ち入り行為は「侵入」にあたると、ざっくりと判断したものと思われます。
有罪とは言え、罰金5万円という結論であり、起訴価値という意味では、無いに等しいと言っても過言ではなく、なぜ、このような起訴がされる必要があったのか、起訴猶予制度というものは何のために存在するのか、という疑問は、拭い去られることなく残っていると思います。
本来的に、その運営や処分の在り方等に、民意や健全な社会常識を反映させることができず、最近の「国策捜査」を巡る議論にも現れているように、独善的に暴走しやすい体質を持つ検察庁の危険性、といったことが、改めて問われる必要があり、単に、テレビに出たり本を書いたりして騒ぐだけでなく、法改正等によるドラスティックな改革、といったことも真剣に検討されなければならないのではないか、という議論も必要でしょう。
私は、世の中の片隅で生きるしがない弁護士で、どこかのタレント弁護士のように政治家になる色気も野心もないので、今後とも世の中を変える力はありませんが、そのような力がある人、これから持つ人には、是非、検討していただきたいと思います。

追記(平成23年3月18日):

本件は、最高裁第二小法廷平成21年11月30日判決で上告棄却となりましたが、判例時報2090号149頁以下に掲載されていました。
判決では、2審と同様の判断が示され、法益侵害の程度が極めて軽微とは言えず、他に犯罪成立を阻却すべき事情は認められない、私生活の平穏を害する態様の表現の自由は制約されてもやむを得ないとして、上告が棄却されています。
問題点としては、既に2審判決に対して上記のように指摘したようなものになると思います。

政党ビラ配り逆転有罪 『高裁に憲法ないのか』 被告僧侶怒りあらわ
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007121290070900.html

この記事では、「判決は未決拘置日数(二十一日間)を一日五千円に換算して刑に参入することを認めており、すでに罰金五万円は払い終えた計算になる。」とありますが、罰金刑を宣告する際、未決勾留日数を刑に算入する、というのは、通常はしないことで(体刑の場合は、通常、よく行われますが)、裁判所が、よほど「起訴価値」のない事件、と見たのだろう、ということが、この点からも読み取れるように思います。
東京高検次席検事は、「法解釈と社会常識に照らし、極めて妥当かつ常識的な判決」などと、うそぶいているようですが、起訴の在り方として、「極めて妥当かつ常識的」かどうかは、判決結果を踏まえ、胸に手を当ててよく考えてみるべきではないか、と思います。

追記(平成23年