アーティストを見つづけること

 いつの頃からはもう覚えていないのですが、たしか80年代のはじめくらいだと思います。僕は、細野晴臣さんというアーティストを、一生追いつづけようと決めたのでした。そう、自覚的に決心したのでした。それは、その当時までの彼の足跡や、その当時のリアルタイムでの活動・音楽家としての才能を見ていて、「紛れもなく、この人こそ戦後日本が生んだPOPにおける最大の良心だ。」と確信できたから。 僕らは、ロックを中心とする音楽に、音楽以上の価値を見出してきた世代です。ある人の髪形が変わったり、バンドが変わったり、環境が変わったりすると、そこには何か意味があるはずだ、と、友人と話したり考えたりした世代です。そんな僕らにとって、最も刺激的だった人が彼だったのです。 で、ここ数年の再びの活発な活動・それもティンパンのメンバーとの活動までを、色んな形で見てきたつもりです。

 そうすると、彼の人生のある側面を何十年も見ていることになっているわけです。このことは、僕の生活や考え方にも、すごく大きな影響を与えていると思います。最初は、その時々の発表されたサウンドなり曲の中のメッセージを、時代の中で受け止め考えてきただけだったのが、時間が積み重なってくると、過去の作品と最新作の対比の中で、「彼が変わった・変わらない」などの検証が始まります。そこに、その時々の彼自身のコメントなんかが付加情報として入ってくると、またそこで考えたり納得したりする。 このことがとても面白いのです。

 ほかにも、最近では金森幸介さんの復活とか、五つの赤い風船の復活とかがあると、単にリユニオンや懐古趣味を超えて、その出来事にどんな意味があるのかなあ、とか、逆に情報が聞えてこなかった間、例えば西岡 たかしさんは何をしてたのかなあ、と、彼らのアンソロジーが気になってしまうのです。 それは、もともとロックでもフォークでも、「自分を歌う」ことで僕らに響いた音楽だったから。で、そんな「失われた日々」を知りたいと思ってネットで情報を集めると、アウトラインは今やすぐに出て来ますから、そこで彼らの人生に思いをはせたりするわけです。

 いま、かつてないくらい、セールス以外の部分で充実を見せている(と僕は思う)日本のロックの中に、お気に入りのアーティストを持っているみんな。その人の活動をずーっと追って御覧なさい。それこそ20年くらい。きっと、そのアーティストと一緒に生きていく20年は、君のライフを豊かにすると思います。 僕は、そうでした。

73年 停滞

 
 そろそろ73年に行きましょうか。冒頭からなんですが、この年はホンマ自分的には面白くなかった年でね。まず、アメリカのロックに新味がなくなったし、ヒット曲もなんか面白くなくなってきていた。エルトン・ジョンの「ダニエル」ってあったでしょう?僕、あれ聞いた時、ホントがっかりしてね。「なーんや、この人ってこの程度やったんかあ。」って偉そうに思ってしまった。それまでのアルバムが全部すごかったんでね。特に「マッドマン・アクロス・ザ・ウォーター」なんて、最高でしたもん。とにかく、この年のロック・アルバムは2枚だけ。イーグルス「ならず者」とピンクフロイド「狂気」。この2枚が突出してよかっただけ。この2枚にしても、ものすごく作りこんだ良さで、だから聴いててもよそよそしかったけど。

ソウルものが後半でガンガン自分の中にクルようになり、ウォーとかタワー・オブ・パワーとかスタイリスティックスとかを好きになったのですが、アルバムを買うまでには至らなかったな。で、相変わらず71年くらいまでの名盤といわれるものを聞いていました。アメリカやイギリスのロックに、初めて失望感を持った年でした、73年は。

 日本ではどうやったかな。個人的な感じしかこの頃は覚えてないけど、音楽はドンドンPOPになっていったことはよく覚えているな。それが新世代の登場を感じさせるものでした。例えばユーミンの登場。この頃NHKのラジオで、特集で聞いたのです。へー、なんかアカ抜けた音楽やなあとおもってね。

 それと、斎藤哲夫「バイバイグッバイサラバイ」のアルバム。これは、僕には当時かなり大きな出来事でした。もともとこの人の「なやみ多き者よ」って歌は、ディランの「時代は変わる」とプロコルハルムを連想していたのですが、そんなPOPとフォークの混ざってる曲がアルバムになってドンと来たのがこのアルバムだったので。例えばアコースティックギターのカラミなんかも、このアルバムでははっきりそれまでの日本のものとは違う乾いた感じに聞こえたし。このあいだから数回聴いてみたけど、やっぱり今でもちゃんと聴けるだけの個性がある。懐かしさナシでね。それは、このころのユーミンなんかでもそうですが、ユニークな音の組み合わせでPOPを作ってるから。
 
 で、シュガーベイブの登場です。はっぴいえんど の解散コンサートで、大瀧さんのソロプロジェクトのコーナーにコーラス隊として出てきた彼らは、そのアメリカンテイスト一杯のコーラスで鮮やかにデビューしました。さっきも書いたように、僕はこのころ新しいロックはあまり聴かずに、おじさんに借りたビーチ・ボーイズアメリカングラフィティのサントラをよく聴いていたので、彼らのコーラスに反応できた。 

 それから久保田真琴。ファーストアルバムはそうでもなかったけど、ラジオかなんかで聴いた彼のライヴは、ニューオーリンズやなんかの音楽を取り込んだロックンロールの匂いがぷんぷんあって、同じ味の細野さんのソロ「ホソノ・ハウス」とともに「大人のロック」を感じていました。あと、吉田美奈子のアルバム「扉の冬」や南 佳孝の「摩天楼のヒロイン」なんかもこの年かな?どんどん東京という都会の音楽が出てきたころですね。こうやって書いてみると。

 それと、ぼちぼち京都のバンドの噂が、いろんなところから聞えてくるようになりました。きっかけはBBKINGの前座でやったウェストロードでした。それとはまったく違うところから、村八分というスゴイロックバンドの噂が。聴きたいなあ、とは思っててね。で、ついに聴けたのが2枚組のライヴアルバム。これは、鳥肌が立ちました。それがリリースされる少し前に確かアンアンに彼らの写真が載ったのです。グラム。ぞくっとしました。お化粧したメンバー。それが今のヘナチョコバンドとは違い、ものすごく雰囲気がある。ヴォーカルのチャーボーは、ストーンズの69年のアメリカンツアーを現地で見てきて、帰国してすぐにフジオサンと一緒にこのバンドを作ったとか、気に入らないことが
あるとすぐステージを止めて帰るとか、とにかくセンセーショナルな話題が先行していたのですが、この2枚組で完全に外野はだまったもんね。凄すぎ。本物。

 この年のはっきり覚えていることは、僕はまずオイル・ショックでの街のパニックでした。あの時の大人たちの落ち込みようはひどかった。特に、OPECの発表があって数ヵ月後、街を今までに体験した事がない悲観的なムードが覆い始めた時のいやーなかんじは、今でもよく覚えてる。「日本の成長はここまでか?」高校2年生の僕がそんな風に思ったくらいですから、フロントラインで働いていた人たちの焦りや落胆が大きかったのは言うまでもないことで。

 メディア、特にラジオがはっきりここから変わりました。売れるDJだけが売れる曲を流す番組が大半になっていきました。小数の例外は、すべてAM3:00以降に回されました。この辺から、たぶん組織だった選曲やリクエストや有線放送のローテーションがかっちり決まっていったのだと思います。売れる曲はイヤというほど聞かされたもん。

 アメリカに続いて、日本でもロックやフォークははっきり商品になっていったのです。それはよく覚えている。僕の好きな、破れているけどパワーのある音楽がどんどん少なくなっていきましたから。だから、村八分のようなバンドが出てくると気になったのです。そして、そんなバンドを生んだ京都という街が、この秋くらいからどんどん気になりだしました。