科学の平和利用を-終戦の日を迎えて-

 本日は終戦の日であった。本来ならテレビの前で戦没者追悼式を見ながら正午には黙祷を捧げたかったが、11時にハトの訓練に行かないといけないので、正午には部屋には間に合わず。なので、大学の図書館前で一人ポツンと黙祷をしていました。そして、帰宅してから録画しておいた戦没者追悼式を改めて見る。それにしても、あの厳格な雰囲気はなんなんだろうか。なんていうか言葉が出ない。出ないと言うよりも、何もない、そんな感じになる。

 さて、私の心理学のなかでも専門としているのが「行動分析学」である。最近はそのあたりの論文を読み漁っているので、徐々にその考え方が身についてきた(弁別できてきたとも、そういった概念(言語化できない随伴性)が形成されたとも、そういった行動が生起されるようになったとも言えるが)。その行動分析学の枠組みでいろんな人間ドラマというか、これまでの歴史的事例を見ていると、いろいろと解釈できることが多い(詳しくは専門的になるので割愛)。そもそも、行動分析学に過去の事例を解釈することに目的はないが、過去のそういったことにどのような行動随伴性や確立操作などがあったかを検討するのも重要なのではないかと思う。

 行動分析学では、文化は社会的随伴性のもと形成されたものとみなす。戦争当時にどのような社会的随伴性が働き、どのようなものが社会的強化子となったり、どのような行動随伴性が設定されていたかを、今、改めて考えさせられる。テレビでも戦争経験者が「非国民と呼ばれることがどれほど苦痛であったか」といった言語報告を聴くだけでも、その当時の社会的随伴性と確立操作の設定が恐ろしく感じる。

 まぁ、専門的なことはさておき、行動分析学の目的は端的に言うと「行動の予測と制御」にある。ここでの「行動」とは目に見えるもの(観察できるもの)に限らず、私的出来事といい、いわゆる内的な事象(思考や情動反応)も含まれる。制御というとマインドコントロールなど嫌なイメージを持たれるかもしれないが、そのような意味でのコントロールは目的としていない。応用行動分析学では主に、障害児(者)の行動形成や、パフォーマンスマネジメントや社会での問題行動を低減させ、適切な行動を増加させる研究が主流である。その他にも企業での取り組みも行われている。

 で、どうしてこのようなことを書いているかというと、そもそも「問題行動」や「適切な行動」とは何か、ということである。これが適切に設定されなければ、負のイメージとしてのコントロールになってしまう。現に、理論的には可能である。実際に行おうとする行動分析家はいないであろうが、行動分析学をかじった程度の一般者なら利用しかねないところが危惧されるし、行動分析学で研究されている行動原理は、普段、人が経験的に行っていることでもあるため、さらに不安である。そのため、行動分析学に限らず心理学には多くの倫理規定があるのだが、専門家でなければ触れることもないのかもしれない。

 さてさてさて、前置きはこの辺で、本題である。戦争のときでも、普段の社会生活の中でも科学は有用に、且つ、平和的に使用されなければならない。使い方を一歩間違えば取り返しのつかないことになる。心理学も行動科学の一分野であり、つまり科学の一つである。そのため、極論を言えば、人を死に至らしめることも可能である。それは悪用されればの話であるが、心理学を学ぶ多くの人にはその意識が低いのではないかと思うことが多々ある。臨床場面においても、一歩間違えば救える命が救えなくなるかも知れない。また、基礎的分野においても、研究計画がずさんで、間違った解釈がされ、それが一般に広がり、それが原因で差別などに利用されれば元も子もない(これには報道機関やテレビの問題もあるが:実際にどれだけ突っ込みたいことがよくあるか・・・)。そのため、研究法をしかりと学び、且つ、常に洗練していかなければならない。

 と、終戦の日を迎え、科学の平和利用をあらためて考えたそんな日でした。

行動分析学ではそういった科学の平和利用事態も、人間行動として研究対象であり、且つ、目的であることを最後に明記しておきます。