故郷

青梅に住んでいる人に物を渡す用事ができたので、場所を立川にしてもらって、そのまま北上して、懐かしい処を見てきた。「えのきどべんてん」というバス停があって、記憶の中では「えの/きど/べんてん」だったのに、今日見たら「榎戸弁天」に化けていて、おもしろかった。


ぴらぴらは、これまでに6回も東京都内で引越を繰り返している。いま住んでいる恵比寿は、7箇所め。今日行って見てきたのは、3番めと4番めだから、ちょうど中間あたり。時期にすると、幼稚園の2年目から、中3の春まで。もっとも多感な時期だったと言ってよい。ぴらぴらがぴらぴらとなる前のことである。


3番めの家は、小平市小川町。離れてから、もう12年。でもほとんど変わっていない。


ヒルな幼稚園児だった。『死に至る病』を読めていたら、自分のことだと思ったに違いない。きょう、姫百合幼稚園を外から見てみたら、一番手前にある八角形の部屋が、例の火傷をした部屋だということが判った。痕がいまでもかすかに残っている。言われてようやく判るか判らないかという程度にだが。


その日は節分で、鬼が来るということであった。本当に来ると信じきっていたわけではなく、先生が「東大和の駅のあたりまで来たって」と言うのに多少の白々しさを感じていた。その八角形の部屋で、隠れるということになった。僕は、奥深くの机がしまってあるすき間に隠れて、何があっても出ていかないようにしようと決めていた。


しばらくすると、大騒ぎで、あとで判ったのであるが、このとき他のみんなは別の大広間に集められていたのである。僕は出ていかなかった。


さらにしばらくすると、取り残されたのではないかと不安になり、机のかたまりから外に出てみた。すると誰もいなかった。窓の近くまで歩いていって、ふと外を見ると鬼がいて、こちらを威嚇してくる。足がすくんで、しばらく立ち止まっていた。気づくと、ひざのあたりを電気ストーブの羽で焼いていた。誰にも言わずに我慢して家に帰ったら、水膨れが二本できていた。


このころから、隠遁願望があったようである。園庭のまんなかに、ロケットの形をした遊具があった。中は空洞で、螺旋階段がついていた。一番上のとがった部分も空洞で、そこまで登って隠れていることが多かった。


図書館に入り浸っていた。上宿図書館。今日も寄ってみた。足の向くままに進んでいくと、南洋一郎訳のシリーズ怪盗ルパンが今でもあった。嬉しかった。小学校に入るまでひらがなも書けなかったのに、幼稚園のころから文字はたくさん読んでいた。


住んでいたマンション。自転車に乗れるようになった場所を見つけた。乗れるようになった、と言っても、補助輪を外したその日のうちに乗りこなせるようになったので、練習したことがほとんどないのである。実は最初に一回、植木を急に回ろうとしてこけた。でも、二回目は大丈夫だった。その植木が、この3本のどれだったっけ、と思った。


自転車に乗るのは好きだったけれども、走ったり跳んだりするのは苦手だった。学芸大附属の小学校の受験に連れて行かれたとき、あまりにグラウンドが広く、これの端から端まで走らされるところを想像したら戦慄して、「来たくない、うぅ…」と思ったらめでたく不合格となった。


友達をつくって遊ぶのも苦手だった。引っ越して去る前日に、一緒に遊ぶこともあった子に、明日引っ越すんだ、と言ったら、「あ、そう」と言われた。名前を覚えるほど親しくはなかったから悲しくはなかったけれども、近所の子供並の関係を築けなかったことを残念に思った。


砂場で一人で遊んでいることが多かった。一度、さみしそうとや思ひけむ、小学校の3年生くらいの男の子たちが一緒に砂場あそびをしてくれた。


幼稚園時代の同い年の友達の名前は、ふたりしか思い出せない。ひとりは、名前だけしか覚えていない。地名と名字が類似していることに印象を受けた模様である。もうひとりは、大学に入ってからも一回会った。なんでも、センター試験で受ける科目(国語)を間違えてしまったそうで、でもおかげで近所の大学に通っているそうだ。


8階に住んでいた。隣に少し年上の女の子がいて、何度かベランダの仕切り越しに話をした。でも数える程の回数だった。たしか、アメリカから帰ったところと言ってて、ペダルを踏んで逆回転させるとブレーキがかかる自転車に乗せてもらった。名前も顔も思い出せない。


4番めの家は、小平市津田町。津田塾大学のある町である。ほとんど覚えているままで、なんにも変わってなかったので、さらっと見ておしまいにした。目に留まったものといえば、津田塾の門の前に、人待ち顔の男子学生が二人いたことくらいである。


このように人づきあいの悪いぴらぴらであったが、今でも戻ると、相当の感慨を覚える。振り返るとそこにあるはずの物がちゃんとある。もしここに家族や友人や、ひょっとして恋人がいたりなんかしたら、どれほど懐かしいことであろうか。どれほどの愛着を覚えることであろうか。