オザケン、ゲバラ萌え

昨日の日記に追記しようと思ったが、それだと読まれなくなるかもしれないので、新しく記事を起こす。
小沢健二は「企業的な社会、セラピー的な社会」でマズローの「自己実現」という概念を批判している(ああ、これはオレも大学で学んだ。懐かしい)。マズローによれは第一段階として「衣食住、睡眠、性欲などが満たされていていること」、第二段階として「身の安全、安定が満たされること」、のように五段階のステップを経て、はじめて人間は自己実現できる(自分の能力を最大限に発揮できる)と唱えている。それに対して小沢健二は「ジョン・レノンマーティン・ルーサー・キングやマハトマ・ガンディーは自己実現できたけど、身の安全が保障されなかったじゃん」と反論している。マズローのロジックも単純だが、小沢健二のロジックもずいぶん単純だと思わなくもない。そして「自己実現できたのに非業の死を遂げた人物」として、チェ・ゲバラの名を特権的に挙げている。彼がボリビアのホテルに長期滞在してこの論文を書き上げたのも、この国がゲバラの終焉の地だったからかもしれない。
高校生や大学生がうっかりゲバラに憧れて、彼の顔がプリントされたTシャツを買うのは判らなくもない。しかし来年で40歳になろうかという中年男が「ゲバラ萌え」を公言するのは、ちょっと恥ずかしいのではないのだろうか。

男の家事

オレはパスタを食べるというか、茹でるのが好きで、自炊するときはパスタにすることが多かった(ソースはレトルトに頼っていたのが情けないが)。そのときは茹で時間が「8分」と袋に明記されている麺は、時計の針とにらめっこしながら、きっちり8分が経過してから湯切りした。このことをのちに女友達に話したら、「ああいうのはあくまでも目安であって、自分で噛んでちょうどいい具合の柔らかさになったと判断したら湯切りするものなのだ」とさんざんからかわれた。
独り暮らしをはじめてから自己流で家事を身に付けた男性は、しばしこういう間違いに陥るものらしい。しかしそうやって「正しい」家事の名のもとに男性を抑圧するのもいかがなものかと思わなくもない。
たとえばこの記事を読んだ女性は、「レトルトのソースに頼ってパスタを茹でるだけなんて、自炊(料理)のうちに入らない」と思うかもしれない。だが外食しているのではないのだから、自炊(料理)のうちに含めてもいいではないか。嵐山光三郎が「カップラーメンにお湯を注いでかやく類の乗せるのだって、立派な『料理』だ」といったことをどこかで書いていたが、オレはこの意見に同意する。こういうノンシャランな発想が男性にも女性にも足りないからこそ、いわゆる「男の料理」は日常生活では滅多に食べる機会のない、不必要に凝ったものになりがちなのではないのだろうか。それに外国に長期滞在すれば否応なしに外国語で会話する能力が上昇するように、自炊しなけばままならない状態になれば、料理なんて自然と覚える気がしなくもない。