人は歴史に学ぶことはできないのか

歴史が好きです。その頃に生きていた人の頭と心にシンクロすることで、多くの人生を生きる妄想に浸ることがある。テレビで篤姫を楽しんでいるし、最近、水戸で天狗党墓所である常磐共同墓地に行く機会を得たこともあり、吉村昭の著作を読み直してみた。

桜田門外ノ変』、『生麦事件』、『天狗争乱』である。(心も目頭も熱くなる名作です)


幕末の動乱を描いたこれらの作品(ほぼドキュメンタリー)は、尊王攘夷という思想を強烈に抱いていた水戸藩薩摩藩の志士の心の動きも描かれている。薩摩は強烈な攘夷派であったが、薩英戦争で外国の力を目の当たりにして攘夷の思想をさっさと捨てる。それが一気に日本を明治維新へと走らせる。

もちろん薩摩も清国がイギリスに負けて香港が植民地された歴史を知っていながら、攘夷を実行すべきと思っていた。でも戦争に負けて初めて「攘夷はかなわない」と知る。歴史をさんざん学んでいながら、負けて初めて己を知っているのだ。


これらを読んで思った。
人は歴史から学ぶことは難しく、自分の経験から学ぶことしかできないのではないか。


そうでないと歴史を学びまくってた人たちが第二次世界大戦に突入したり、海の向こうの金融危機が起きているのを知っているのに自国でさらに大規模な金融危機を同じ構図で引き起こすことに説明がつかない。LTCM→リーマンと歴史は繰り返され、いまの不動産会社の相次ぐ倒産は91年のバブル崩壊の再来。。。歴史の教訓とはそもそも活かせないのではないか。だから、歴史は繰り返す。

歴史に学ぶというのは理想であるが、とても難しい。自分で痛みを感じたものからでしか人は学習はできないのかもしれない。そうでないという意見はたくさんあるだろうが、そういう前提で物事を設計した方が良い。学ぶだけでは足りない。歴史を人の経験に組み込まないと過ちは繰り返される。