独歩の「悪魔」

「明治文学全集66 国木田独歩集」に収録されていた「悪魔」を読んだ。
岡本君は登場しないものの、今作に出てくる浅海謙輔もまた驚異の哲学に取り憑かれた人間で、意外にも(意外ではないのかもしれないが)今回浅海と対立するのは世俗的人間や現実主義ではなく、キリスト教伝道師である。

牛肉と馬鈴薯」や「岡本の手帳」の岡本は、驚異の哲学を足がかりにして信仰を持つことを願っているように思えるが、「悪魔」の浅海は、存在の不思議を認識することなしに、つまり存在に対する驚異に目覚めるというような回路を経ずに、ただ素朴に、確立された権威に盲従するごとくに信仰するのを一種苦々しく思っているようだ。あるいは宗教的覚醒に裏打ちされない、教義のお題目を唱えるだけの信仰生活への批判。どうも驚異の哲学から出発して正統的なクリスチャンへの道は険しいようだ。

信仰に至るのに独歩的な驚異の哲学を通らなければならないということはないだろうし、浅海の伝道師批判には正統的なクリスチャンから見たら一種のおごりがありそうだけれども、この小説では上辺だけの振る舞いしか描かれない伝道師よりも内面の葛藤が描かれる浅海の方に感情移入してしまうのはまあ致し方ない。

しかしこの「悪魔」、驚異の哲学を扱ったシリーズとして、または独歩と信仰の問題を扱った作品としてどう見ても重要作であり、独歩作品集などには「牛肉と馬鈴薯」「岡本の手帳」とともに当然一緒に収録されてしかるべき作品だと思うが、入っていないということは、独歩の驚異の哲学シリーズは「武蔵野」に代表される自然主義系列の作品ほど関心を持たれていないということか。(この「明治文学全集 国木田独歩集」は小説以外にも独歩の評論やエッセイも収録されていて良い選集だと思うが、「岡本の手帳」が収録されていないのはやはり納得がいかない。)