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ソーシャル時代の共有体験(Shareness)を考える・前編

漫画や小説は「一人で消費する近代的なメディア」

 漫画のメディア的な特徴というのは、今までいくつかの角度から研究がなされています。
 たとえば、泉信行『漫画をめくる冒険』などの仕事で発表した中から挙げてみましょうか。
 ちょっと専門的な話になりますが、なるべく簡単に。

  • 映画が「時間的に連続する」メディアだとすれば、漫画は「空間的に連続する」メディアである。
    • 漫画には時間が存在しない。動きの流れ、タイミングやリズムは心で想像するしかない。
    • (「音声」も時間的な情報なので)音やセリフも心で想像するしかない。
  • 縦書きと横書きの「書字方向」、そして書字方向に基づく書籍の「綴じ方向」が、漫画の「読まれ方」を左右する。
  • 空間的に連続する画像が「上下左右に隣り合う」ことで、(絵画や映画など以上に)絵の向きによる違いが増大する。
    • 左右の差違は「流れる方向」「主体化されるキャラクター」などの「見え方」を左右する。
    • 本の見開きはノドで折れ曲がっているため、その角度によっても「見え方」は変わる。
    • しかし最終的には「方向」も「主体」も読者が心で決めるものだ。

 さて、これらの性質から、ひとつの結論をざっくり述べるとしたら、


漫画(ひいては「本」で読むメディア)は
個人で消費する「個有のメディア」としての側面が強い


……という指摘でまとめてもいいでしょう。
 これは2008年に、泉信行夏目房之介先生と対談した際にも挙がった問題提議でした。
 以下に引用してみましょう(『漫画をめくる冒険』下巻より)。

 なるほど。ちょっと気になっていたのが、一人で抱えるよりも、こう血を混ぜる、遺伝子を交えていくような方がいいんじゃないかっていう話からの流れなんですけど。そこで興味深いのが、漫画というのはプライベートな娯楽なんですよ。なのに、漫画の面白さというのは、そのプライベートな読み方が集まってきた時にあるという。多分これ、映画とかテレビドラマとか、公共性のある娯楽を語り合う時と、また別の現象が起きていると思うんですよね。そこはどうでしょう。
 う〜ん。どうなんだろうなぁ。
 他の娯楽と区別してみると、音楽でいうとどうなんでしょう。音楽もやっぱりプライベートに楽しむジャンルと、みんなで楽しむパブリックなジャンルがありますよね。
 どうなんだろう。えっと、例えば音楽はライブだったらみんな一緒に聴いてるよね。映画は劇場だったらみんな一緒に観られるよね。DVDやCDでも、同時に共有できると。あと映画でも音楽でも、一緒に行く人を誘うじゃない。一人で行くこともあるけど、できれば誰かいてほしいよ。つまんなかったらつまんなかったで、文句言いたいし。そのツッコミでつまんなかった映画が面白くもなるんですよ。だけどさ、一人でつまんなかった時って、ほんとにつらいぜ(笑)。音楽にしても映画にしてもさ。で、面白かった時は「面白かった」って誰かに言いたいっていうのがあって。
 言葉で言わなかったとしても、「多分同じ思いをしたんだろうなぁ」ぐらいは思いたいんですよね。
 うん。そうそう。そういうのあるじゃん。
 で、それが劇場で隣に人がいれば、顔や雰囲気でわかりますから。語らなくても済むみたいな。
 そう、だけど結局漫画とか小説とかっていうのは読んでる時に一緒に読んでないからさ、江戸時代じゃないからね(笑)。江戸時代みたいに、声に出してみんなで朗読してたら別だけど、漫画でそれはしないわけだから、体験に時間差があるわけだよね。時間差がどういう風に、僕らの共同体の中で機能しているかっていう話になると思うんですよね。
 それはそうですね。映画とか音楽は一緒に体験さえすれば、もう共有は済んでいて、でも漫画っていうのは、よっぽどのことをしないと、共有っていうのは達成されない。
 と、思うんですよ。
 だからこそ、語りたいと。なんで読み終わった漫画をわざわざ語ろうとするんだろうっていうんじゃなくて、それは共有が奪われた状態だからなんだ、っていう。本来なら共有が当たり前だったのが、物語や娯楽というものなんでしょうね。


漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 下巻・The Book漫画をめくる冒険―読み方から見え方まで― 下巻・The Book
泉 信行

ピアノ・ファイア・パブリッシング 2009-05-10


 この話では、漫画というメディアが「プライベートな娯楽である」という見解が前提になっています。
 つまり、


「読者自身が、心の中で決めなければならない読み方が多い」
「その読み方は、読者一人が個有するものであって、他者と共有するには工夫が必要である」


……それが漫画というメディアの性質です。
 しかし、そんな漫画を「なんとか共有しよう」とする営みも私達は行なっています。

 本来はそうだと思うのよ。だから「マンガ夜話」って意外とみんなやってたことなんじゃないのかなと。学校や喫茶店や飲み屋とかで「あの漫画がさー!」みたいな話をやっていたことの、ひとつの判型として機能したんですよ、きっと。で、それはなんだろうな、みんな本当はそうしたいのよ。ものを読んで楽しんだり、それが非常にプライベートなものであればあるほど、本来的に人間はみんなと一緒に楽しみたいんだよ。だけど、みんなそのことは忘れてる。だから潜在化した意識なんだけど、そういう楽しみがあるんだということを可視化したのが、多分「マンガ夜話」の意味なのかもしれないな。
 娯楽の、近代への動きを追っていくと、プライベートな娯楽の方が突然、人類の前に現れたものなんですよね。
 うん、そうです。
 その状況の方が歴史が浅いし、ヒトという生き物にとっても特殊な状況だから、どこかで埋め合わせをしないといけないわけで。
 そういう感じがしますね。でも、そこで普通の人ってそう思ってないんだよね。漫画とか活字にしても、一人で読むのが普通だと。大昔からみんなそうしてたんだと思い込んでいるんですよ。
 それは昔は普通じゃなかったんです、という……。町の広場で演じられたり、教会で神父さんが朗読してくれたりするのをみんなで共有するのが、元々あった物語で。
 だと思いますよ。僕は趣味で絵巻物のレプリカを持ってるんだけど、その中世の絵巻物を見てても、絶対にこれ何人かで集まって楽しんでると思ってますからね。その方が絶対面白いんですよ、あれは。絶対誰かが喋ってたって思うんですよね、弁士みたいなのがね。それも上手い下手があるはずなんだよ。
〔中略〕
 そういう例っていくつか聞くんですよ。女性なら中学高校の頃、少女漫画を好きな人で集まって声に出して読んでいたとか。だからね、やっぱり我々の中に潜在的にあるんですよ、そういうものは。
 古代からの……。
 うんそうそう。古代から、近世までやってたからね。近世っていうかもっと言えば明治の初めまでやってたわけですから。だから、それはあるんですよ絶対。
 そこを奪われたものって言う風に認識した方がいいのかもしれませんね。本来はあったものが今は無い。
 本来はあったんじゃないかな、と。


 人類にとって「独りだけで物語に没入する」というのは近代から大衆化されたばかりの、歴史の浅い営みでしかありません。
 だから人間の本能(=脳)は、元々「物語を独りだけで消費する」ようにできていない、まだそんな進化はしていないのです。


 そして、本能の求める営みを埋め合わせるように、「プライベートな娯楽をなんとか共有する欲望」に駆られるのが人間なのかもしれない……。
 特に、漫画(+漫画を語ること)について研究していると、そんな発想が湧いてくるのです。


 学校の教室で回し読みをしたり一緒に声に出してセリフを読んだり茶店や居酒屋で雑談したり一晩中電話をしたり
 インターネットが無い時代から、漫画好きはそうした「共有」を続けていました。


 ヒトとして本来あった「共有」が、漫画や小説ではダイレクトに得られない──。
 さて、この問題を正しく理解するためには、夏目先生も言及されていた「近代的な読書の習慣」が大衆に与えた影響というものを踏まえておく必要があります。

「近代的消費体験」が、人間を「共有体験」から独立させる

 まず参考になるのは、「メディア論の父」とも呼ばれるマクルーハンの著作。
 ここでは入門書に適したマクルーハンの光景』をテキストとして用います。


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 まずマクルーハンは、原始的な「村」の中で、村人同士のざわめきや、太鼓の音などの合図が「聴覚的に」共有されていた姿を想定します。
 聴覚は、視覚と違って、互いに離れた場所からでも同じ「情報」を共有しやすい性質を持つものです。
 マクルーハンのメディア論は、人類が原始から現代に至る過程で、聴覚中心の生活から視覚中心の生活へと変化していったのだと見立てます。


 だから美術や芸術が発展してきた歴史も、「視点論」を軸にすればマクルーハンの主張を理解しやすい。
 例えば古代ギリシアの劇場は、舞台をぐるっと客席が囲むかたちになっており、観客は多角的に眺めることができました。舞台が3Dなんですね。


 観客ごとの視点が同一ではない、という事実が「みんなで一緒に見ている」という共有感覚を高めていただろうと思います。
 例えば、自分の席からは死角になった役者の演技も、反対側の席に座っている別の客には見えているわけですからね。
 自分にとって見えない部分は、他の誰かが「自分の代わりに見ている」のは確実です。
 だから舞台は個人の視点で掌握しきれるものではなく、観客全員の視点によってようやく全貌が成り立つ、「みんなのもの」として感じられたと思います。


 またギリシア悲劇では、コロスと呼ばれる合唱団が大きな役割を占めていました。
 客席から充分な視界を得にくいだけに、歌や朗読によって劇の内容を伝え、視覚よりも聴覚に訴える部分が大きかったのでしょう。


 その上で、客席からの視点が均一でないということは、当然「一番見晴らしのいい特等席」「全体がよく見えない普通席」との格差ができる道理です。

中村善也『ギリシア悲劇入門』p3

 丘の斜面を利用して作られた観客席の収容人員数は、二万に近いものであったと考えられるが、それだけに、うしろの席であれば俳優の演技の場からは百メートルも離れていることになる。よい席を取ろうとして、われがちに押し寄せた人々が引き起こした騒動は、察するに難くない。はじめは無料であった入場料が、のちに有料──といっても、今でいえば市電やバスの料金程度のものであった──になったのも、このためであったという。


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 現代でも、スポーツ観戦などは「いい席と悪い席の格差」が如実に現れるでしょう。
 フィールド全体を一望できるような──あるいは至近距離から試合にがぶりつけるような──特等席が、VIP専用の席として生じてきます。


 そして歴史上の演劇は、たった一人のために上演されることがありました。
 中国の京劇は皇帝一人のために奉じられましたし、日本でも芸能好きの殿様が自分のためだけに舞台を開かせました。
 パトロンとなる権力者によって、舞台の「視点」はひとつの観客席、たったひとつの視座に集約されていきます。
 それが「王の視点」と呼べるものです。


 舞台にかぎらず、支配下にある「風景」を独占することも権力の証でした。
 宮殿には豪奢な庭園が作られますが、そのデザインは宮殿に住まう主の「視点(Point of View)」からの見栄えを前提にしています。
 その空間を誰かと共有するのではなく、個有の視点から独り占めすることが「贅沢さ」と「権威」に繋がるわけです。

宮下誠『20世紀絵画』p24

 西洋の作庭法で最も一般的なのはあのヴェルサイユ宮殿(図3)に見られるものだろう。左右対称のプラン、見事に刈りこまれた木々や花々。それを前にしてちょうど真ん中に絶好のヴューポイントがある。本来は王にのみ許された特権的視点である。王は自分の支配するものを「一望のもとに俯瞰」しなければならないのだ。


ルイ14世は民衆の誰もがヴェルサイユに入るのを許し、民衆に庭園の見方を教える「王の庭園鑑賞法」というガイドブックを発行した。〔中略〕。民衆は、ガイドブックに従って庭園を鑑賞することで、貴族と自然を圧倒した王の偉大さを刷り込まれていった。

ヴェルサイユ宮殿 - Wikipedia
  • 「王は己の支配領域を俯瞰しなければならない」という考えは、日本の城の「天守閣」の存在意義も同じことでしょう


 この「本来は特権的」である「王の視点」が、西洋の美術そのものを変えていきます。
 ルネサンス以降の西洋絵画は、次第に「遠近法」の画法を発達させていきますが、それはまさしく「一望のもとに俯瞰する」固定された視座を再現するための技術でした。


 ちなみに遠近法以前のヨーロッパでは、「神の視点」によって把握される空間が描かれていた、とされます。

宮下誠『20世紀絵画』p44-46

 中世において世界の中心は神であった。神とは世界の説明原理である。世界は神という装置によって説明され解釈された。中世の絵画には「逆遠近法」(図19)という、遠近法に慣れた今日の目から見れば倒錯した表象システムが存在する。〔中略〕すなわち、神は絵画に内在し、そこから見える世界を睥睨しているのだ。


 中世ヨーロッパの社会では、神という第三者こそが絶対的な視点であり、人の視点はそれより劣るものです。
 風景もまた神のものであり、個有することのできない「誰のでもないもの(Nobody's things/God's things)」だったのでしょう。


 だから中世の時代において、遠近法の技術は「発達しなかった」のではなく「必要とされなかった」のだ、と言われます。
 観念的な「逆遠近法」ではなく、リアルな「遠近法」が必要とされるのは、「一人の個人の視点」が「神」による世界解釈に取って代わろうとした結果なのだと。

宮下誠『20世紀絵画』p46

 遠近法とは、一定の視点から世界を解釈再構成したものである。一定の視点からとは言うまでもない、神を見放した、あるいは神に見放された人間の視点である。それによって生み出されるのは、改めての世界支配、自然支配の欲望の表象である。そこにあるのは人間という新参の王の視点である。〔中略〕神という説明原理がその機能を相対化されたとき、人間は森羅万象、世界で起こるあらゆる現象を己の責任で引き受けざるを得なくなる。


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 この「人間は森羅万象、世界で起こるあらゆる現象を己の責任で引き受けざるを得なくなる。」という必然から、近代的な自我が生まれました。


 そして印刷技術の発達によって「プライベートな読書」という行為が大衆化し、「たった一人で世界と向き合う」視覚中心の世界がより深まっていきます。
 日本でも、寄席での上演を中心にしていた「講談」の文化が、明治末期から「講談本」という形の出版物となり、やがて吉川英治『宮本武蔵』昭和14年)のような「近代小説」を準備することになります。


 ここでいう「近代小説」も、視点の変化と関係しています。
 近代小説が登場するということは、それまでの講談が「人間の行動」を外から描くのみだった(=逆遠近法的)のに対して、「人間の心理的葛藤」をその内面を通して描くようになった(=遠近法的)ことを意味するからです。


 映画の視点(POV)も、固定カメラで劇の舞台を撮影するだけのものから、より個人の視点に近いカメラワークが追求されていきます。
 映画・アニメ・漫画・小説の視点は、「客席の位置によって視界が変わる」古代の劇場とは異なるものです。
 正しい位置に座りさえすれば、たったひとつに限定された「特等席」の見え方が誰であれ保証されるのですから。


 カメラワークが発達してからの映画において、すべての役者は、カメラの向こうの「ただ一人」に伝えるための表現を演じるでしょう。
 そこまで発達した映画は、「王様ひとりのために演じられる宮廷演劇」と同じくらいに贅沢です。


 近代から現代への過程で、様々な文化の大衆化が進んでいきました。
 あたかも一般市民がレコードプレイヤーで宮廷の音楽を嗜むがごとく、レストランで王族の料理に舌鼓を打つがごとく、「王の視点」は個人にとってごく当然の視点として浸透していきました。

受動的な世界と能動的な世界

 「神の視点」を退けた近代の思想といえば、ニーチェニヒリズムがありますね。
 その思想の中に「パースペクティヴィズム(Perspectivism)」という用語があります。
 Perspectiveとは「ながめ」の意味で、「遠近法」の意味でもありますが、人間というのは「神の視点」を持ちだそうが、どう客観的に(相対的に)物事を捉えようが、究極的には「一定の視点から眺めていることから逃れられない」症状として指弾した言葉です。

貫成人『真理の哲学』p10

 これは、「特定の視点からの眺望を絶対化し、それを真実と思いこんでしまう、ある種、病的状態」であり、あえて日本語に訳せば、「眺望固定病」とするのがふさわしい。


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 「神の視点」を真理として絶対化するような文化に比べれば幾分マシだとしても、「個の視点」によって物事の判断をつけている現代の我々の文化もまた、ニーチェに言わせれば「病的状態」であることには変わりないでしょう。
 しかしそれが病的であったとしても、対象と一対一で向きあうような「ものの見方」が今の私たちを支えていることも確かです。


 活字の記述は直線的(リニア)な一貫性のある情報を私たちにもたらし、その「読み/書き」を通じて「一貫した思考」を訓練することが可能になりました。
 何かを独りで鑑賞すること。それによって世界を頭の中に取り込み、自己を見つめ、内面を発見し、沈思黙考する。
 そして自分の内面と向き合うということは、他者の内面を認めることにも通じていくでしょう。


 近代化というのは「個人」を作り出す運動でした。
 そして現代の私たちはまだ、「個の視点」を通じて主体的・能動的に生きることを人生の軸にしています。
 その「能動的な感覚」を尊重して守っていくこともまた、現代人に求められる能力のひとつです。


 武術研究家の清水豊さんは、「受動的な情報の受け取り方」によって「感覚が鈍麻していくこと」を危ぶむ考えを述べています。

最近では、イヤホンで音楽を聞く人を見るのは普通のこととなってしまったが、こうした受動的な情報の受け方を常にしていては、感覚はますます鈍化していくことであろう。同じようなことでも、本を読むのであれば、情報を取ろうと能動的な働きをしなければならない。


もちろん電車やバスの中などでは、沈思黙考するのが、好ましいと個人的には考えている。

『ワールド・ミステリー・ツアー13【ロンドン篇】』 「むすび」の武術〜福徳円満〜/ウェブリブログ

活性されたメディアと非活性のメディア

 ここでマクルーハンのメディア論に戻ります。


 有名な彼の理論として「ホットなメディア」と「クールなメディア」というふたつの分類があります。
 英単語のままだとイメージしにくいので、語義的には「ホット=活性」「クール=非活性」と訳すとわかりやすいかもしれません。


 活性化したメディアとは、情報密度が高くて、自律していて、ユーザーの参加を必要とせずに情報を与えてくれるメディアです。
 ──ただ座って垂れ流すだけでもいい、ラジオ、映画、テレビ番組、アニメなどがそちらに近い。
 非活性のメディアと言えば、逆にユーザーが積極的に参加しなければ(ユーザー自身が活性させてやらなければ)情報を引き出せないメディアです。
 ──電話、新聞、小説、漫画、ゲームなどは、「聞く(訊く)」「読む」「解釈する」「選択する」というユーザー側の努力を必要とするでしょう。


 余談ですが、現代人がテレビをつけっぱなしにして流したり、音楽をシャッフル再生したりする習慣は、確かに能動的な思考力を奪うものかもしれません。
 でも、他に「コントロールしがたい雑音や雑念」がすでに存在している場合、より強い受動的な刺激によってそれを打ち消そうとするのが、TVのつけっぱなしやBGMの習慣なんだろうなと思います。


 そして「音楽」はBGMとして流すのではなく、自分の好きなディスクを選んで、ゆったり鑑賞することは「能動的な参加」に含まれると言えるでしょう。
 特に、ブックレットの歌詞カードを黙読しながら歌を聴く……、なんかそうでしょうね。
 また、映画やアニメ、ラジオなどは「観客がコントロールできない」という意味では確かに受動的なのですが、よくできた作品や上手なパーソナリティならば「受け手の考える間(ま)」をうまく作り出し、能動的に受け取ることもできる、豊かな体験を与えられるわけです。


 マクルーハンの考える「ホット/クール」の二分法は細かく考えていけば曖昧なところがありまして、そういう「まっすぐ向き合う時間」さえあれば、映画であってもアニメであってもラジオであっても、「能動的に参加するメディア」として消費していくことは可能だと言えるでしょう。
 一対一で対象(作品)と向き合いながら、そのひとつひとつを「自分独りの体験」として記憶できればいい。


 反対に、ユーザーの参加を必要とする「ビデオゲーム」であっても、ただ脊髄反射のように同じ作業を繰り返すだけのゲームを黙々と遊んでいる場合。
 それは「ユーザーが参加している」ようでいて、実際は「ゲームシステムの側が活性化している」状態だと言えて、ユーザーは非常に受動的な立場に置かれていることになります。


 だから、TwitterなどのSNSはちょうど、「活性(ホット)」と「非活性(クール)」の中間的なメディアではないか、と考えたことがありました。


 Twitterのタイムラインをまず開いたとき、そのログを全て閲覧するまでは「能動」だと思います。
 しかし現時点のログを閲覧しきったあとに、新着の読み込みを待つ更新時間は「受動」的です。
 自分でリロードした際に、期待通りの新着ログが出現するのか? あるいは無反応なのか? ましてや読み込みと展開が完了するまで何秒かかるのか……などは、ユーザーの側でコントロールできない要素です。


 これは音楽プレイヤーでいうと、一曲聴き終わったあとで、次に何の曲が流れるか知らされないどころか、「いつ次の曲が始まるのかすらわからない」「なんど再生ボタンを押しても次の曲が流れない」くらいの不自由さでしょう。
 それは、文字メディアにおける「リニアな文章を読んで思考する」という一貫した体験が、外部要因によって切断されることにも繋がります。
 「自分のペースで思索する時間」を奪われ、沈思黙考の機会が失われていくことをも意味します。
 この「新着待ちのタイムラグによって自分の思考が乱される」という現象は、インターネットの使用頻度が高い人なら、誰しも耳が痛くなる話ではないでしょうか。
 しかし、良く自覚しておいた方がいい問題でもあるでしょう。


 とりあえずまとめると、機会のコントロールがユーザーに預けられているメディアはクール(非活性)だと呼ぶことができて、機会のコントロールを外部に預けたメディアはホット(活性)だと考えることができます。


 インターネットのリロード時間にかぎらず、週刊連載やテレビ番組のようなスパンでもそうです。
 来週の展開が待ちきれず、ネットでネタバレ情報を必死に待ち構えたり、一秒でも早くフライングゲットできる手段を模索するようになると危険信号です。もはや自分のペースの思考というのは失われかけています。
 新しい情報が手に入るタイミング次第で、自分の体験が決まるようになるわけですから。

「ゆるいShareness」と「強いShareness」

 「個有的な」メディア体験を通じて、「能動的」に消費することの価値を、ここまでで確かめてきました。


 しかし夏目先生との対談でも触れていたように、人間の本能はまだ「近代的な自意識」に適応しきってはおらず、どこかでバランスを取ろうとする欲求があるのでしょう。
 そこで求められるのが、本論の主題である「Shareness」です。
 近代以降の文化は、「王の視点」や「個の視点」で独り占め可能なメディアだけではなく、みんなと共有することに価値があるメディアも育んできました。


 同時代性の高い書籍を読むことや、劇場で映画を観て感動すること。お茶の間のテレビで人気番組をリアルタイムに観ること。
 インターネット以前から行われていたこれらの営みも、人々には欠かせない「Shareness」だったと言えます。
 映画評論家の町山智浩が主張していた「映画の良さ」というのも、「その場の感動や空気を共有する良さ」として表現されるものでした。


 その空気の体験こそが素晴らしいのだ、と映画好きならそう言うでしょう。
 ライブイベントや舞台のエンターテイメントを好む人種が求めるものも、おそらくその喜びに集約されるはずです。
(※余談ですが、大学の学生さんから聞いた話の中に「ライブイベントは好きだけど、本当なら豪華なライブを独り占めしたい、他の観客に煩わされたくない」という率直な意見もあったのが興味深かったです。これはまさに王の視点ですね。)


 しかし映画館における共有体験とは、別に意見交換などを必要としない、個人ごとの自己満足である「なんとなくの共有」だと言えます。
 (観客のマナー次第ですが)映画の観賞中にその作品について語ったりはしませんし、口から出るのは笑い声、ため息、泣き声などに留まります。
 ソーシャルネットワークにおける、「具体的な意見が可視化され、評価や主張を即座に確かめ合える共有」とはレベルが全く異なるのです。


 TwitterなどのSNSや、動画共有サイトのコメント、匿名掲示板などで行われる「共有」はその点どうか。
 その参加者たちがシェアするのは、「場の空気」に留まらず、リアルタイムに思いついた意見や価値判断を含みます。
 そうした具体的な共有を、「強いShareness」と呼んで区別してもいいでしょう。


 この「なんとなくの共有=ゆるいShareness」「具体的な共有=強いShareness」の落差を知ることは、今の時代において重要なことだと考えられます。

三種のかたちの「劇場(アリーナ)」としてコンテンツを捉える

 以下の図は、獨協大学の講義で黒板に描いていたイメージ図です。



 一人で読書をしていると、その内容を頭の中で思い描き、勝手に動き出すような……、たとえば「まるで登場人物が自分の心の中に住んでいる」「自分の中に住んだキャラクターが語りかけてくる」と感じるくらいに感じ入ることがあると思います。
 これはコンテンツを眺める「劇場(アリーナ)」が、受け手の中に生まれているというイメージです。
 コンテンツ内容と受け手との距離がとても近く、能動的な感受性を養えるかたち、と言えるかもしれません。


 次いで、みんなと「共有」することを前提にしたコンテンツは、「劇場」が受け手の外部にあるようなかたちに喩えられます。
 こちらのかたちは、さらに二種類に大別できるでしょう。
 映画館や、(マナーの厳しい)コンサート会場のような「ゆるいShareness」をもたらすタイプの劇場と。
 インターネットや、お喋りOKな会場のように「強いShareness」をもたらすタイプの劇場です。


 前掲の対談でも言及されていた、「言葉で言わなかったとしても、多分同じ思いをしたんだろうなぁぐらいは思いたい」という、「なんとなく共有できた気持ち」が心の中に生まれるのが「Sharenessのゆるい劇場」による感覚です。
 「みんなと一緒に眺めている」というイメージとしては劇場との距離が離れていますが、そこから感じ取った気持ちは「自分の心の中にある」という身近さがあります。


 一方、「Sharenessの強い劇場」は、頭の中で劇場を作り出す必要がない──つまり、コンテンツとして受け取る前から共有が完了していることもあるために、受動的な感受性が優勢になります。


 「自分の心の中」が劇場になるのか、劇場を「離れて眺める」のか。
 そして劇場を離れて眺めているとしたら、それはゆるめにシェアされた劇場なのか、それとも強固にシェアされた劇場なのか。
 この区別を意識してみると、自分(& みんな)がコンテンツに対してどう向き合っているかに気付きやすくなります。


 ゆるいSharenessでは、「なんとなくみんなと一緒にいるんだろうなあ」という雰囲気を肌で感じつつも、「自分にとっての劇場(アリーナ)」を積極的に体験しようとする能動的参加を行うことができるでしょう。
 特に「映画」ではなくライブイベントや舞台演劇だった場合、とある客席からの視点は「自分だけの見え方」「全貌を把握できない視点(アングル)」であって、即時に「完全な共有」をすることもできない、プレミアムな体験でもありますから。
 そして能動的な体験がひと通り済んでから、他の見方や感想とのシェアを進めていくという順番になる。
 「自分の視点からはこんな風に感じた、みんなも同じ気持ちかもしれない」という個有と共有がミックスされた体験と、「自分以外からはどんな風に感じられたんだろう? 実際に同じ気持ちだったのだろうか?」という具体的な共有の体験は二段構えにできるわけです。


 しかし強いSharenessではどうでしょう。
 はじめから「劇場(アリーナ)」は自分の外にあって、そこではすでに意見交換が行われており、「自分にとっての劇場」を体験するまでもなく消費が終わります。
 タイムラグもなく具体的な共有を済ませられるために、「みんなはどんな風に感じたんだろう?」「まったく違うところを見ていたかもしれない」という不安や畏れも生まれにくく、そこで共有したものが全てのような錯覚も感じやすいはずです。
 そして、これから後述する「自己切断」が、非常に起こりやすい状況にあります。


 では次の後編から、核心と言える「電子情報時代における共有体験」の問題に入ってゆきます。