テオドール・アイケ
軍人:ドイツ
(1892〜1943)
ダッハウ強制収容所長
強制収容所総監.
警備部隊長、
第3SS機甲師団トーテンコップフ師団長
アルザス地方ロートリンゲン(ロレーヌ)出身
第一次世界大戦では陸軍に入隊
戦後イルメナウ工科大学に入学
1919年:大学中退
その後,ドイツ各地の警察を渡り歩くがどこへ行っても免職。
I・G・ファルベンに対産業スパイ保安要員として勤務、爆弾による暗殺準備罪で2年の懲役判
決を受けイタリアに逃亡、
1933年:SS長官ヒムラーによりSS准将に任命。ダッハウ強制収容所長就任。
その残忍・粗暴な性格*1で強制収容所の運営に多大な貢献をしその功により強制収容所総監となる。
またアウシュビッツ所長ヘスを育てた。
1934年:「長いナイフの夜」でSAの粛清にも参加.
ヒトラーは旧友レームを殺すのを嫌がり自殺させるよう命じたが
ハイドリヒからSA幕僚長レームの射殺を命じられレームを射殺した。
レーム処刑の功により全国強制収容所総監兼SS監視部隊長に任命.
SS監視部隊の武装編成を指導し「親衛隊トーテンコップフ部隊(SS-TV)」にする.
SS-TVをさらに親衛隊戦闘部隊(SS-VT)に編成.
1939年11月:SS-VTを「武装親衛隊トーテンコップフ師団」としその師団長.
1940年:対フランス戦,トーテンコップフ師団を率いて出撃.
その際,ドイツ軍に抵抗しラパラディで降伏したイギリス軍第2師団の兵士捕虜98名をトーテンコップフ師団連隊中隊長クノッホラインが虐殺.
1941年:独ソ戦でトーテンコップフ師団はデミヤンスク、レニングラード攻略参加.軍事的才能の乏しさに各方面から非難を浴びる
1942年:トーテンコップフ師団を含むドイツ軍がデミヤンスクでソ連軍に包囲される.
この時,1ヵ月間、デミヤンスクに包囲のまま空輸だけで最後まで持ちこたえ友軍との連絡に成功.
このソ連軍の包囲からドイツ軍を救った功により柏葉騎士十字章.
1943年2月:行方不明となった師団の部隊を飛行捜索中に撃墜され戦死.
「あなたはもっと早くそれを言うべきだった」(射殺されたレームの言葉「我が総統・・・」に対して)
*1:警察は彼を「公安を害する精神異常者」と見なし、精神病院にも収容