太平洋戦争末期、戦況の悪化により大都市への空襲が予想されたため、国民学校の学童を農村部に避難*1させた政策。1943年末より実施された。 各家庭で独自に行った「縁故疎開」と、集団で行った「集団疎開」とがある。
*1:敵前逃亡という悪印象を回避するため、「避難」ではなく「疎開」の語が用いられた。
ピースおおさかの特別展『対馬丸』事件 ~いま生きる私たちへのメッセージ~。 いまから79年前の1944年8月22日、沖縄からの疎開学童約800人を乗せた日本の貨物船「対馬丸」が、長崎に向かう途中米海軍潜水艦「ボーフィン号」によって撃沈され、疎開学童784人を含む1,484人が死亡しました。 対馬丸事件から79年後の今日、世界では戦火により多くの子どもたちの夢や希望が奪われ続けています。 ~いま生きる私たちへのメッセージ~、パネル展です。 ランキング参加中ミュージアム ランキング参加中日本の歴史
1944年(昭和19年)8月4日 首都・東京から学童疎開第一陣が出発します。 (疎開の目的) 1944年(昭和 19年)に入ると日本本土への爆撃が増えてきました。 激しくなった空襲から守るため、さらに子どもや老人や婦女子を都市から遠ざけ、本土決戦を貫徹する目的で学童疎開を決めます。 学童疎開実施要綱では、京浜・名古屋・阪神・北九州の12の重要都市の国民学校初等科第3学年から第6学年の児童が対象となり、国民学校 3 年生以上の児童を都市部から農村へ避難させる学童疎開を行うことにします。 学童疎開が決まると、各学校では、 残留組と疎開班に分かれ、出発の時にお別れの式が開かれました。 こうして、学童…
1944年(昭和19年)6月30日 東条英機内閣が都市の学童を地方へ学校単位で集団疎開させること=学童疎開促進要綱が閣議決定されました。 (疎開の目的) 1944年(昭和 19年)に入ると日本本土への爆撃が増えてきました。激しくなった空襲から守るため、さらに子どもや老人や婦女子を都市から遠ざけ、本土決戦を貫徹する目的で学童疎開を決めます。 閣議決定した学童疎開実施要綱では、京浜・名古屋・阪神・北九州の12の重要都市の国民学校初等科第3学年から第6学年の児童が対象となり、国民学校 3 年生以上の児童を都市部から農村へ避難させる学童疎開を行うことにします。残留組と疎開班に分かれ、出発の時にはお別れ…