1979年に開館した県立の歴史博物館。群馬の森の公園内にある。原始から現代までの群馬県の様子などの展示活動のほか、調査・研究や教育普及に努めている。展示活動は、常設展のほか年数回の企画展を催している。
講演会に参加してノートを取ったので整理。 概要 人が亡くなった後に埋葬するのは一次葬。その後白骨を選び出して土器に納めてもう一度葬るのが再葬。東日本では弥生時代前半に弥生土器の壺の骨を納めていた(そのため壺再葬とも呼ばれる)。この独特の葬儀方法は弥生時代中期の中頃まで続くが、それ以降はパタッと無くなる。この交代劇は大きな変化であり、墓制が無くなってしまった理由を社会現象として捉えるべき。稲作が行われたことにより定住が進んだことで墓制の変化が生じた。再葬墓の時期は頻繁に移住しなければなかったが先祖の遺体を放置して行くのは忍びなかったので骨を壺に入れて移住先に持ち運んだ。だが稲作で定住が進んだこと…
講演会に参加しノートを取ってきたので整理しておく。※今回はレジュメが無く配布されたのは図版資料だけであり、スライドの内容も撮影禁止。そしてそのスライドも文字をパワポにベタ打ちしただけのものであった。よって演者の講話を速記でメモ出来たもののみを記す。 本講演の趣旨 企画展のテーマは再葬墓だがこれは東日本独自の墓制である。これと比較するため、西日本、特に北九州の墓制を取り上げる。九州北部では甕棺が用いられており、これは企画展でも展示されている。九州北部は渡来人が多くの文明を日本に伝えた地域であり、半島との関係の中で北九州の墓制も捉えられる。弥生時代の墓を調べることで、渡来人と在来人の関係、初期筑紫…
企画展に伴い実施される講演会に参加しノートを取ったので、整理しておく。 内容概略 弥生時代の墓制は西日本と東日本で大きく異なる。九州地方では甕棺墓であったのに対し東日本は再葬墓であった。再葬墓とは遺体を一度白骨化させた後で土器に納め再び埋葬することで作られる墓のこと。蔵骨器に合わせて骨を処理した。今回の講演会の第1テーマである「沖Ⅱ遺跡」は群馬県最大規模の再葬墓群という歴史的意義を持つ。①27基の再葬墓群、②骨片や人歯などが堆積土に含まれる礫敷土坑(AD-25号土坑)、③27000点を超える遺物が出土した遺物包含層の3点が特徴として挙げられる。再葬プロセスの復元や日常生活の検討など弥生時代を社…
長野方業と長尾顕景の抗争を巡る3点の書状を読み解く史料紹介的な講座内容。 書状の読解が講座の目的であり、講師が史料原文を読み下し現代語訳と解説を行うというもの。 長野方業の戦国史的な位置付け、箕輪城の歴史的意義などは特に扱われなかった。 政治史的な史料価値は無いとのことだが戦国コミュニケーション的には重要であるとのこと。 (「戦国コミュニケーション」という概念についての定義などは論じられていない) 以下、講座の内容をまとめておく。 講座概要 箕輪城主・長野方業と厩橋城主・長野賢忠の所領は、総社長尾氏を挟むように位置していたため、日常的に長野VS長尾の対立があったと推測されている。大永4年(15…
講演会の内容をノートにとったので、整理しておくこととする。 概要 講演者は群馬県の文化財行政における重鎮とのこと。企画展の射程は近現代であるが、絹織物自体はそれ以前からあるので基礎的理解として「古代の絹の歴史」を扱うという。レジュメ、スライドは無く、講演者のテキストが配布され、随時画像が投影された。前半は講演者の思い出話であり、地元・伊勢崎市境における養蚕の様子が語られた。中盤からようやく本題に入り、世界史的起源、日本列島への移入、群馬県における絹織物、矢田遺跡の遺物から見られる絹産業が扱われた。 はじめに 昭和30年代頃の私の原風景 絹織物の誕生と日本列島への到来 古代中国における絹の誕生 …
群馬県立歴史博物館の講座を聞きに行った。ノートを取っていたので、内容を整理しておく。 講義概要 ①太田市の金山城を拠点とした由良成繁(1506~1578)に注目。上杉謙信の関東侵攻(1560)以後、北条・上杉・武田間の戦乱において由良成繁がどのように動いたのかを追う。 ②由良成繁は上杉(1560謙信侵攻)→北条(1566謙信大敗)→上杉(1569越相同盟成立)→北条(1571越相同盟崩壊後)と巧妙に立ちまわっていた。越相同盟の際にはその成立に貢献するが、北条氏康が死去すると由良成繁には何も知らされないまま北条・武田間で再同盟が結ばれ「面目を失う」こととなる。さらに同盟崩壊後由良氏は北条氏方につ…
講演会でメモしてきた断片をノートに整理しておく。 講義概要 現在行われている企画展「日本開国と群馬の生糸-鉄道・蒸気船・電信-」の展示担当者による解説。生糸生産と生糸輸出がもたらした歴史的意義について、①開国、②ペリー、③生糸貿易、④蚕糸業、⑤絹の道の5つの観点から論証する。結論としては、世界遺産の価値について絹の大衆化というグローバルヒストリーが挙げられた。また日本の近代化への貢献という点については、生糸の道などを丹念に見ていく必要があるという今後の課題が示された。 【目次】 1.開国-横浜開港 2.ペリーがもたらしたもの 3.生糸貿易の始まり 4.蚕糸業の発展 5.生糸の道 おわりに 群馬…
講座で聞いた内容をノートにとっていたので、整理しておくこととする。 講義要旨 上杉謙信は関東で戦を行っているが、新潟からどのように山を越えてきたのか。謙信の越山を取り上げて群馬(上野国)と謙信の関りを扱う。 謙信は三国峠を越えて越後から上州へやってきた。また、謙信が関東に来るのは主に冬季である。その理由は冬になると北条氏の動きが活発化し、武将たちが謙信に救援を求めるから。室町幕府体制下にある謙信は関東管領・上野国守護の地位にあったからそれに応じなければならなかった。 【目次】 はじめに 1.関東越山の位置 2.越山の大義 3.上杉謙信の越山の特徴-極端な季節性- 4.上杉謙信の雪中越山 5.終…
ノートにとった講演会の内容を整理しておく。 講義要約 幕末維新期に生糸は主要輸出品となったが、品質不良により買取価格が低かった。そのため品質を向上させる必要があり、高山社は養蚕改良に取り組み「清温育」という飼育方法を確立する。 高山社は蚕種販売と養蚕教授で大いに栄えたが、高山社の「清温育」は厳格な飼育管理が必要であった。それ故、丈夫で品質の良く厳格な管理を必要としない「一代交雑種」が実用化され、蚕種統一運動が起こると高山社は衰退していくことになる。明治44年には国立原蚕種製造所が設立され、国家が養蚕の主導権を握るようになる。高山社が経営していた蚕業学校も低迷し昭和2年に廃校となった。 高山社の…