・紀元前1046年? 甲子の日、周王,発は殷軍と交戦して勝利し、晩には殷の都商を占領した。(利簋銘文) 〔参考〕殷の紂王,受(帝丁)は70万人の軍勢を動員したが戦意がなく受に逆らった。受は財宝を貯めた鹿台に登り、焼身自殺したという。(『史記』周本紀) 〔参考〕『国語』「周語下」には、周が殷を滅ぼしたとき、木星が鶉火の方位にあったとある。 ※利簋の銘文に「歳鼎」とあることと『国語』の記述を関連付けて、殷が滅んだ年を紀元前1064年とする説もあるが、『国語』内の逸話の信憑性に問題があることや、銘文が他の解釈もできることから、疑問も呈されている(佐藤信弥『周』)。 ※「紂」と「受」は音が似ていること…