テルモピュライで行われた戦い。テルモピュライ*1はギリシャ中部テッサリアと、アッティカ・ペロポネソス等の南部ギリシアを結ぶ要衝であり、何度かの戦闘の舞台となっている。最も知られているのは第二次ペルシア戦争中に行われたものである。
ときに紀元前481年、ペルシア帝国のクセルクセス大王はギリシア人たちに懲罰を与えるべく遠征を決定。ギリシアの諸ポリスに降伏勧告を送った*4。
これに対して抗戦派のポリスは同盟を結成してペルシアに当たることを決した。
翌年、ペルシアの遠征軍がヨーロッパ側に渡り、戦闘が始まった。遠征軍は南下し、ギリシアの中心地アッティカを目指す。
これに対してギリシア連合軍は海軍をアルテミシオン沖に、陸軍をテルモピュライに配置した。テルモピュライとは直訳すれば「熱い通路」であり、つまりは温泉が近所に湧いている峠だった。ここは一方は海と山の間の狭隘地であり、寡兵を持って大軍を防ぐに適した場所だった。
当時ギリシアは祭事期間であったため、連合軍の規模は全兵力から考えると小規模なものに留まっていた。連合軍首脳部はここで持久して祭事開けにやってくるはずの増援を待つ、という作戦だったと考えられる。
会戦1日目、ペルシア軍の正面攻撃は撃退される。
会戦2日目、ギリシア兵の精強を見たクセルクセスは、切り札たる「不滅隊」*5を投入する。が、やはり要害に拠るギリシア軍の守りは堅く、この日の攻撃も失敗に終わる。
伝説によれば、この日、ギリシア軍からの脱走兵がペルシア軍に間道の存在を教えたとされる。いずれにせよなんらかの方法で迂回路の存在を知ったペルシア軍は夜間行軍を行い、強引に突破を図る。
一方危機を察知したギリシア側は撤退を検討するが、レオニダス王とスパルタ軍300名が残留し、その他テスピアイ軍700名と(なぜか戦意に劣るはずの)テバイ軍400名が残ることになった。
明けて会戦3日目、レオニダス以下の残留軍はペルシア軍と正面から戦い、降伏したテバイ軍を残して文字通り全滅した。
勝者のはずのペルシア軍の損害も2万に上り、一方全ギリシアはこの事態に憤激して徹底抗戦の意志を固めたとされる。
テルモピュライで勝利したペルシア軍は南下してアッティカを席巻し、アテナイを占領する。が、アテナイ市民の大半は海へと脱出し、ギリシア人たちの艦隊はサラミス水道に集結していた。テミストクレスの智謀が、全てを海上決戦へと導いていく。
次回「サラミスの海戦」(つづく)