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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン

(音楽)
ふらんつよーぜふはいどん

Franz Joseph Haydn(1732〜1809)。

ヨーゼフ・ハイドンは1732年、ハンガリー国境にちかい、ウィーン南東のローラウ村に生まれた。実家の絵を見たベートーヴェンには「百姓の掘っ立て小屋、ここであれほど偉大な人が生まれたのだ!」と、逆の意味で感嘆されるほどの環境だった。しかし、美声を買われ、ウィーンのシュテファン大聖堂の少年聖歌隊員として音楽教育を受けるようになる。ハイドンは聖歌隊の中でも花形で、マリア・テレジアの寵愛も受けたほどだった。もちろん、当時は歌手としての未来を嘱望された。カストラートにならないか、と持ちかけられた本人もまんざらではなかったが、職人だった父親はウィーンに駆けつけ、それを阻止した。

17歳で変声期を迎えたハイドンの扱いは一気に低下し、他の少年の髪の毛をハサミで切る、という奇天烈な行動に出て、聖歌隊をクビになってしまう。その後、路頭を迷うところを、知人で、シュテファン大聖堂からそう遠くない、ミヒャエル教会元聖歌隊員だったシュパングラーという男に拾われ、その屋根裏部屋に住まうようになる。舞台の楽団や酒場での仕事にくわわったりしつつ、作曲の勉強を続け、1751年にはオペラを作曲し、それが翌年ウィーンの劇場で上演されたりするなど、音楽家としてのキャリアを苦労と無頼の日々の中で積み始めた。

10年ほどは今で言うフリーランスの音楽家だったヨーゼフだが、その間にも18世紀を代表するオペラ脚本家、メタスタージョの家の屋根裏部屋に住み、彼の娘の音楽教師をしたり、当時のイタリア人大作曲家、ポルポラの内弟子になったりと、うまく身を処することに長けていたため、次第に貴族社会との接点が増えた。

1761年、大貴族で音楽愛好家のエステルハージ侯の楽団の副楽長となったあとは、ほどなく楽長に昇格し、パウル・アントン・エステルハージ侯のために、オペラ、室内楽曲、交響曲、協奏曲、ミサなどほぼ全ジャンルにわたって、しかも大量の作品を書くことになる。さらに自作品を出版業者に売り、代金をうけとる自由を認められたために、ハイドンの名声は一気に高まったのだった。「交響曲の父」と知られるヨーゼフ・ハイドンだが、弦楽四重奏曲などの形式の礎を固めたのも有名である。

1790年、ニコラウス侯がなくなると、次代の侯爵は経費削減のために、名物だった楽団を大幅に削減する。ハイドンは楽長の称号だけを保持しつつ、自由にヨーロッパを行き来することができるようになった。イギリスに2度渡ったハイドンは、新作コンサートを催すたびに名声を手にした。19世紀初頭のナポレオン戦争時はウィーンの皇帝のための賛歌を書き、これがオーストリア国歌になったのは有名。晩年に有名なカンタータ「天地創造」と「四季」を残し、1809年5月31日大音楽家としてウィーンで死去。かざらない、ユーモアを理解する人柄で、世の敬愛の情を得ていた。

作風は代表作の交響曲、「驚愕」のアンダンテに触れれば、「一聴瞭然」と思われかもしれないが、その熟練の作曲技術や形式美には比類がない。モーツァルトの作風と比較された上で、凡庸さの象徴のように扱われてしまうの一方で、楽曲構造の明晰さや楽想の転換の巧みさは、モーツァルトやベートーヴェンだけでなく、20世紀以降の「現代音楽」にも影響を与え、ルトフワフスキやリゲティなど、ハイドンの研究に勤しんだ作曲家は多い。楽曲の構造性とは、すなわち、楽曲の「語る力」そのものだからである。

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