(Minnesota Orchestra) ミネソタ州ミネアポリスを拠点とするアメリカ合衆国のオーケストラ。1903年にミネアポリス交響楽団(Minneapolis Symphony Orchestra)として設立され、同年11月5日に最初の演奏会を行なった。1954年にチャイコフスキーの序曲《1812年》を、最初に実際の大砲を用いて録音。当時はモノラル録音だったが、1958年にはステレオ録音で再び録音した。1968年に現在のように改称された。
シベリウスも聴きたくなった。ヴァンスカの特徴はこの清廉さに極まるよね、と思いつつ。シベリウスのこの第5番には、より鬱蒼とした幽玄さがあってもよいのかもしれないけれども、ヴァンスカのここまでの清らかさに振り切った演奏を聴いていると、もちろんこれはこれで解釈の一つの形としてはスバ抜けた雰囲気のあるものなのだと思うのです。
立て続けにベートーヴェンの長調と言うことでこの第7番を。じっくりと楽しもうかと思っていたところ、気がついたら「元」CDラックの整理を始めていた。思えばこのCDラックも2回の引っ越しに耐え、一時は収容能力の700枚をフルに発揮し(それでも入りきらなかった)、第一線で頑張ってくれていたのだな。処分を検討していたのだけれども、収容力とアクセシビリティの高さから(逆に言えば埃に弱い)、汎用棚としての第二の人生を歩むことと相成りました。CDがほぼほぼ消えたことで自分が感じていた圧迫感もなくなり、この棚はあってもよいだろうと思えるに至った次第であります。そんなこんなの作業を、ベト7のメロディを口ずさみなが…
ご無沙汰のクラシック音楽。明日の朝が早いので今晩は寝るのも早い。時間を逆算し、入浴するまでの時間が1時間半ほど空いたのでマーラーのこれをチョイス。指揮と演奏はヴァンスカとミネソタ管のそれで。マーラーマニアの友人はこの音源を「石橋を叩いて渡るような演奏」とリリース当時に評していたのだけれども、自分にとっては機動力と表現の豊かさがある演奏ではないかと思える次第。美麗なマーラー。
明日、ちょっと北の方へ日帰り旅行をしてくるのです。その行程の再調整をしながらこれを聴いておりました。
クルクルと回るように場面転換をしていくマーラー。これは聴きやすい7番ですね。これまで7番を聴く際にはどうにもこうにもしかめっ面か苦渋の表情を浮かべながら聴いていたような感覚なのだけれども、これは「次にどう来るのだっけ?」とワクワクしながら楽しめる。このような新時代の解釈があるからこそ、古い物もまた機会があれば紐解いてみようという気にさせられるのです。
何だかんだで、魂は現世から離れることのできないものなのですよ。シベリウスの第1番が、非常に世俗的に感じられるくらいなのだから、この前に聴いたブルックナーは相当に宇宙なのだろうな。
「そうか、第5番は第9番に道が通じているのか」と今さらながらに気がつく。あまりにも有名な重厚なフレーズから始まり、最後の最後には開放感と明るさに満ちあふれていくその道筋が、真っ直ぐ第9番に繋がっているように感じられたのだよね。これまでそのような考えを持ったことがなかったので、もしかすると、これからは第9番も聴けるようになるかも…しれない…かな?それにしても、いつ聴いてもこのヴァンスカとミネソタ管との組み合わせによる演奏は、上善水のごとしでありますな。音の厚みよりも、滑らかさが勝る、自分にとっての好演。
柔らかく、水彩画のようなマーラー。これがヴァンスカとミネソタ管の音ですね。ガツガツと鬼気迫るマーラーも格好いいのだけれども、このように流麗さ、エレガントさが勝るマーラーもよいじゃない。「よし、マーラー聴くぞ」と無駄に肩に力が入ってしまうものではなく、リラックスして聴けるマーラーですよ、これは。
シベリウスが作りだした闇の中で、自らの心にささくれ立ったものをトリートメントしてもらう深夜。何かを召喚し、そして同時に何かを消滅させるような曲。ある種の劇薬にも似たような。
朝5時を回りました。朝方のシベリウス。音が遠方で鳴っているような感覚で聴いていた。シベリウスは彼方の音楽をも作っていたのだなと再認識。完全にあっちの世界へと旅立てるのは第4番なのだけれども。第1番と第5番はこっちの世界の彼方、と言った感。