本稿では,前稿3)の課題,つまり『歯車』の主人公が受けた「罰」が「神罰」であったのかどうか検討してみたい。ここで問題にする「罰」とは身体的,精神的,社会的,経済的な「罰」ではなく,神,仏,天など目に見えない超自然の力による「罰」のことである。我々が信じるか信じないかではなく,『歯車』の主人公,つまり芥川自身がキリスト教の〈神〉による「罰」を信じたかどうかを問題にする。 『歯車』5章(赤光)で主人公の〈僕〉は聖書会社の屋根裏に居る老人を訪ねている。このキリスト教徒らしい老人とは,以前「なぜ母は発狂したのか」,「なぜ僕の父の事業は失敗したのか」,「なぜまた僕は罰せられるのか」について壁にかけてある…