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伊原春樹

(スポーツ)
いはらはるき

元プロ野球選手・指導者。
旧名「伊原春植」。
右投右打、ポジションは三塁手。背番号は7→56→30番。
1949年1月18日生まれ。広島県府中市出身。身長184cm、体重82kg。
座右の銘は「全力」。

略歴

北川工業高校*1から芝浦工業大学に進学。
4年次に選手、主将兼任監督を務める。

プロ入り

1971年、ドラフト2位で西鉄ライオンズに入団。
1972年、一軍に昇格し三塁手として活躍。
1976年、関本四十四玉井信博との2対2の交換トレードで、加藤初と共に読売ジャイアンツに移籍。
1978年、クラウンライターライオンズに復帰。主将となる。
コクドへの身売りによるライオンズの所沢への移転を、選手を代表して反対。
1979年、西武ライオンズとしての開幕試合に三塁手でスターティングメンバーとなる。
1980年、現役引退。

引退後

1981年から21年間、守備走塁コーチとして西武ライオンズを常勝チームに伸し上げ、黄金時代に貢献。
相手投手や守備を撹乱させるなど、戦法に優れる一方で、短気な部分もあり、時には選手へ鉄拳制裁を課した。
2000年、野村克也に招聘され阪神タイガースの一軍守備・走塁コーチを務めるが、一年で退団。ライオンズに復帰する。
私の体にはライオンズブルーの血が流れている*2という発言はこの時誕生*3した。
2002年、伊東勤が現役続行を希望し、監督就任を固辞した為、西武ライオンズの5代目監督に就任。
「史上最高の三塁コーチャー」の称号を与えられ、監督になった後も三塁コーチャーズボックスに立った。
90勝と言う圧倒的な強さでリーグ優勝も、日本シリーズでは読売ジャイアンツに1勝もできず*4敗退した。
2004年、オリックス・ブルーウェーブ最後の監督に就任。
同年、大阪近鉄バファローズとの球団合併により退任。
また、不足していた単位を取得し芝浦工業大学を卒業した。
退団後は日刊スポーツ、ニッポン放送、J SPORTSの野球解説者を務める。
2007年、読売ジャイアンツの野手総合コーチに就任。同年、ヘッドコーチに昇格。
2010年、読売ジャイアンツを退団。
2014年、埼玉西武ライオンズの監督に復帰。しかし最下位に沈み*5シーズン途中の6月に無期限休養。
同年7月、監督を辞任し球団本部付アドバイザーに就任。

*1:現在の府中東高校。

*2:ロサンゼルス・ドジャース、トム・ラソーダ監督の「俺にはドジャースブルーの血が流れている」という名言を参考にしての発言。

*3:以後、オリックス・ブルーウェーブの監督就任時にも使用し、将来的にライオンズに戻る事を示唆。

*4:要因としては、伊原自身がセ・リーグを過小評価していた事と、堤義明オーナーの現場介入があったと言われている。

*5:休養→辞任後は田辺徳雄が監督代行となり、この年は5位でシーズンを終了。

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