室町後期に活躍した、歴代和泉守兼定の中で随一といわれる 2代目・通称「之定」が打った刀。 持ち主であった細川忠興が36人の家臣を手討ちにしたという逸話から、 「三十六歌仙」にちなんで名が付けられたといわれている。 1644.02.29に忠興より、側室の円通院幾知の子・立孝に羽織と共に伝わった。 1645.05.11に立孝が亡くなると、遺物として肥後熊本2代目藩主・光尚に贈られ、 その子・綱利の所持となる。 時期は不明だが、綱利より家老・相原定常(常道?)に拝領された。 以降、明治30年頃まで相原家に伝来し、その後、持ち主を転々とした。 昭和の初め頃に、細川家16代当主・護立によって買い戻された…