とがえり・はじめ。文芸評論家、作家。本名は十返一。大正3(1914)年3月25日、高松市生まれ。昭和38(1963)年8月28日、国立がんセンターにて死去。享年49歳。随筆家の十返千鶴子は夫人。
高松中学退学後、昭和7年9月、日大芸術学部入学のため上京。同年7月に「近代生活」に掲載されたコント「ある肖像」がデビュウ作。翌昭和8年、弱冠19歳で数々の同人誌に参加。吉行エイスケ、丹羽文雄、武田麟太郎、大宅壮一らの知遇を受ける。昭和10年に紀伊国屋書店出版部に勤め、新刊紹介の月刊誌「レツェンゾ」の編集を担当。舟橋聖一、阿部知二、野口冨士男、田村泰次郎、青山光二らと交際。「レツェンゾ」編集部を退いたあと、昭和10年秋より昭和16年まで森永製菓の宣伝部勤務。同社宣伝部の廃止で失職後、昭和16年7月から昭和18年まで長谷川巳之吉の第一書房に勤め、昭和17年12月には「セルパン」を改題した「新文化」の編集長を務めた。
敗戦後、白鴎社を経て昭和21年8月、能加見出版社へ入社し「小説」の編集長となる。この頃、エイスケの息子、吉行淳之介と再会し、生涯にわたって深く交わった。また同年、同僚の風間千鶴子(風間完の実妹)と再婚、翌22年同社を退社後、筆一本の生活に入った。
しばらく雌伏したが、昭和28年5月から12月まで「朝日新聞」に「文芸時評」を連載した頃から文壇ジャーナリズムの第一線に躍り出た。昭和29年3月発行の『贋の季節』がその記念碑的な著書となり、以後十年、精力的に執筆を続けた。昭和38年4月に急遽入院し同年8月28日に他界。「風景」9月号に掲載の「日記」が絶筆となった。
野口冨士男は、《三十年間に及んだ彼の文学的営為の基本的な姿勢は現場の目撃者、もしくは生き証人という立場に終始しているので、その遺作の一つ一つが昭和文学史の各論的な意味をもつ貴重な参考文献である》としている(『十返肇著作集』上巻解説)。