原田左之助

原田左之助

(一般)
はらださのすけ

新選組十番隊隊長。天保11年(1840)〜慶応4年(1868)5月17日、享年28歳。
伊予国松山(愛媛県)出身 。
伊予松山藩の足軽の子として生まれ、種田流槍術の使い手。
国元で若党を勤めていた頃、ある武士と喧嘩をして、「腹を切る作法も知らぬ
下司め」と罵られたのにカッとなり、いきなり裸になって腹を切って見せたという。
傷は浅かったので命には別状はなかったが、この傷跡を模して丸一文字を
定紋とした。
鳥羽から甲州勝沼の戦いまで新選組として生き、池田屋事件でも十七両の褒章を
賜るが、江戸に帰還後、ついに近藤勇・土方歳三と袂を分つ。
その後に試衛館の食客仲間であった永倉新八と共に靖兵隊を結成し、その後離隊。
江戸に戻り彰義隊に加わった後に上野で戦死した。

原田佐之助について

豪放磊落な暴れん坊で、生前の原田左之助を知る八木為三郎は『原田は気短で
せかせかした男でした。二言目には、”斬れ斬れ!”と怒鳴りましたが、これも
いい男でした』と語っている。
腹に切腹の時の一文字の傷が残ったが、酒を飲んでは「てめぇたちのような、
ヤワなのとは違うんだ。俺の腹ァ金物の味を知ってるんだ」と言っていたという。
長州の間者だったとも言われている楠小十郎を後ろから斬り殺して、「あぁ、いい
気持ちだ」と笑っていたために、あとで近藤勇に酷く叱られたという話が
伝わっている。
新選組の面々は、京都で色町の女を囲って休息所を持つものは多かったが、正式な
妻を迎えたものは少ない。その中で、原田は町人の娘を妻に娶っている。
結婚後は家族を大切にしたらしく、鳥羽・伏見に参戦するにあたり、左之助は
身重だった妻へ200両を届け、自分になにかあったら息子の茂を立派に
武士として育ててくれ、と言い残したそうだ。

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