終電を逃さなかったら出逢わなかった「かもしれない」ーー。「かもしれない」という複数の可能世界には、新自由主義による中間的な社会領域の喪失が、個人的領域と他者的領域の両者を媒介なく接続されることでリアリティを与える。そして、さらにこの可能世界にリアリティが内在しているように描くには、固有名が現実世界と複数の可能世界とを双方に架橋し媒介することで保証される。山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)から無数に発せられる、押井守、天竺鼠、今村夏子、羊文学、きのこ帝国…という固有名の羅列でしかリアリティを把握できないのであれば、それは、「資本主義リアリズム」としての(不)可能性である。そうであれば、本作に…