朝鮮半島を日本が植民地支配していたとき、半島との一番のパイプは関釜連絡船であった。いまでは博多と釜山がメインであるが、関門連絡船の時代では、下関が玄関口だったのだ。五木寛之は初期のエッセイでこう記している。 生まれたのは福岡県である。生後、間もなく両親におぶわれ、関釜連絡船で玄界灘をこえた。関釜連絡船。帝国主義日本の大陸へのかけ橋であった。関は下関、釜は韓国釜山。下関の長い長い桟橋に私服や憲兵の目が光っていたのを憶えている世代も少なくあるまい。/興安丸。そして崑崙丸。小学校の夏休みには、何度となく特急亜細亜号で半島を駆け、興安丸で内地を訪れたものだった。/敗戦からかなりたって、引揚げてきた。大…