夢殿の救世観音(くせかんのん)を見てゐると、その作者といふやうな事は全く浮んで来ない。それは作者といふものからそれが完全に遊離した存在となってゐるからで、これは又格別な事である。文芸の上で若し私にそんな仕事でも出来ることがあったら、私は勿論それに自分の名などを冠せようとは思はないだらう。 志賀直哉が法隆寺の救世観音を見ての有名な文章です。この文章を最初に読んだときは意外な気がしました。 というのは、志賀直哉の文章は、作者自身の強い個性が刻印された<自画像の文学>だと、おもっていたからです。 志賀文学の愛好者の多くが彼の小説を読むとき、あの彫りの深い志賀直哉の顔と端正な文章とを一体に思い浮かべな…