(1122年2月24日)ー(1161年12月15日)
金の太祖・完顔阿骨打の庶長子である遼王・斡本(宗幹)の次男。初名は迪古乃(ユグナイ)だが、改名して完顔亮とした。
殺害の後に廃位され、海陵郡王に落とされたことから海陵王と史称されるが実際にはもっと酷く、死後、皇帝の資格なしとして次の世宗により海陵郡王に落とされ、さらには王の資格もないということになり、王族の籍を外されてしまい、庶人に落とされた。廃帝海陵庶人と当時の文書には記されている。
皇統9年(1149年)、皇帝であった熙宗が奢侈や粛清などの暴政を繰り返して人望を失っているのを見て、自派の重臣らと謀って熙宗を廃して殺害し、自ら皇帝に即位した。
金の建国後に生まれた海陵王は、若い頃から漢文化に親しんで優れた教養を持ち、即位後は漢文化の奨励を行った。その一方で猜疑心が強く残忍な性格で、天徳4年(1152年)には皇帝の独裁権を強化するために、左丞相兼中書令の阿魯(宗盤・宗本)と烏帯(宗言)父子ら大叔父・太宗の子孫70余人と、族父(父の従兄)の秦王・粘没喝(宗翰)の子孫(乙卒ら)50余人など金の宗室系の諸王ら一族の実力者と、目障りな元勲の子孫たちを次々とまとめて粛清した。
正隆6年(1161年)5月には、海陵王は将来の禍を避けるために遼の天祚帝(紹宗)の末裔の耶律氏と、金の故地(中国東北部)の五国城で逝去した北宋の趙桓(欽宗)の末裔の趙氏ら130余人の若者たちを殺害し、耶律氏と趙氏の若い女性を後宮に入れたという。この行為を聞いた嫡母(父の正室で徒単皇后の姑母=おば)の徒単氏は8月に海陵王に諫言したが、海陵王は「私に楯突くこの目障りな老婆を焼き殺してしまえ!」と罵って、この年老いた嫡母を焼き殺した挙句、その遺体を近くの河に放り投げて捨て、同時にその侍女も皆殺しにした。さらに徒単皇后の甥である徒単檀奴、徒単阿里白までも誅殺している。
当然多くの者が海陵王を憎悪し、正隆6年に南宋に遠征した隙に、反対派が従弟に当たる葛王烏禄を擁立し挙兵、海陵王は進退窮まることとなり、南征中の陣中である楊州の亀山寺において、部下で遼の宗族系の契丹貴族である浙西道兵馬都統制・完顔元宜(耶律阿列、または移刺特輦。耶律慎思の子)の軍隊によって殺害された。享年40。
因果応報であろう。
またマイナーな人物でありながら2014年に日本で出版されたムック本に中華皇帝暴君ワースト10に入ったつわものでもある…。