生没年不詳。
主に安土桃山時代及び江戸初期に活動した武将。若州太良庄城主(現在の福井県小浜市)、岡和泉守盛俊の子。蒲生氏時代の猪苗代城主。
初め源八、後に岡越後と改名(諱は定俊と伝わる)。
1573年の織田信長の越前・若狭制圧後、若狭国を任された丹羽長秀に仕えた形跡がないため、信長の若狭領有後は浪人して後、同じ信長傘下の近江国蒲生郡日野領主蒲生氏郷に、最初150石で仕えたと思われる。その後、合戦のたびに武功をたて、氏郷が奥州会津92万石までに出世時には一万石にまで昇進している。
彼は類稀な蓄財家でもあり、休日には部屋中に小判を敷き詰め、その上で裸になって昼寝するのが無上の楽しみであったという。ただし、強欲な守銭奴だったというわけではなく、領民が喧嘩をしていると聞けば敷き詰めた金をそのままにして飛び出していってしまうし、身分の低い者でもその蓄財の才を認めて士分に抜擢するという逸話も持ち合わせている(戦・槍働きが一番という当時としては異例)。
氏郷没後、その子秀行が会津92万石から宇都宮18万石に転封されると、大減封確実な中、蒲生家から上杉家に移籍を認められて上杉家執政の直江兼続に4千石を与えられ家来となる。
慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の際には、上杉家は家臣ともども戦費の調達に四苦八苦の状態となったが、左内は「金とはこういうときにこそ使うものぞ」と莫大な資金を主家に献上し、それ以外にも借金を申し込んでくる同僚の上杉家家臣たちにポンポンと多額の金を貸し与えたという。
さらに最上・伊達勢との戦闘では、福島松川の戦いで伊達家の主将級の武将と一騎打ちを演じ、取り逃がしはしたものの、その陣羽織を奪うという武功を立てた。実はその武将こそ、伊達政宗本人だったとも伝えられている(伊達家は否定している)。
関ヶ原の戦い後は、120万石から30万石へと減封された上杉家の台所事情を慮って、会津に60万石で復帰した蒲生家に帰参。この際、上杉家の家臣たちの借金の証文をすべて焼却し、直江兼続をして「惜しい人物を手放した」と嘆かせたという。
蒲生家では元の1万石を得て猪苗代城代となり、再び莫大な金銭の貯蓄を始めたが、熱心なキリシタンでもあった彼は、磐梯山麓見禰にセミナリオを建てて宣教師を招いたり、城下に教会堂を建てるなど、キリスト教の布教にも力を注いでいる。
子孫は、蒲生家改易後、一時筑前黒田家に仕えた後、陸奥津軽家に移り幕末まで続いたとされる。