70年代のプロ野球選手。
右投右打、ポジションは遊撃手。背番号は1→2→7→67番。
1947年2月20日生まれ。大分県出身。
豊南高校から東京農業大学を経て1969年、ドラフト2位でロッテオリオンズに入団。
1年目より一軍に定着。
1973年、江島巧との交換トレードで、中日ドラゴンズに移籍。
遊撃手の定位置を獲得し、1974年、リーグ優勝に貢献した。
守備範囲の広さで知られた。
1976年、梅田邦三との2対1の交換トレードで、坪井新三郎と共に太平洋クラブライオンズに移籍。
ライオンズでも遊撃手として活躍。
1980年以降、石毛宏典の台頭により控えに回る。
1981年、現役引退しフロント入り。編成担当・スコアラーとなる。
1996年、西武ライオンズのコーチに就任し、現場復帰。
同年、フロントに復帰。編成担当となる。
1999年9月9日、腎不全のため、東京都葛飾区内の病院で逝去。