大乗仏教徒は、自分たちに最も都合の悪い一切皆苦を傍らに追いやり、無我を大我にすりかえ、如来蔵・仏性を説き本覚に落ちて修行を無意味にし、あげくに世間法即如来法を究極の奥義に祭り上げる。教相判釈と称して、釈尊の教えを小乗と貶め、みずからの短慮朦朧説を醍醐に喩え大乗と自画自賛してる。「世間と仏世界を別に立てるのは初心者である。真実には世法と別に仏法があるのではない」と主張するが、まちがってる。作用だけあって主体がない世界は森厳と存在してるからだ。我を隠匿するすべての仏教徒は、常にこの予定調和の卑俗な「奥義」に安着し、動物欲の忠僕になり終わる。捨身堅固ならずして、出離の道を修すること、全くかなうべから…