しにもせぬたびねのはてよあきのくれ 貞享元年(1684)9月下旬、『甲子吟行』(『野ざらし紀行』)の旅において、当初から予定されていた大垣の谷木因邸に到着したときの作。木因は廻船問屋の主で、北村季吟門下として、芭蕉とは同門のよしみもあり、旅の途中で木因を訪ねるのもその目的の一つであった。ところで、大垣藩士には俳人も多いが、それは木因の指導によるところが大きく、度重なる芭蕉の来訪も相俟って、のちに蕉風俳諧が美濃に広がる要因となる。 この旅は、貞門・談林の二項対立的詩想を超克し、客死も覚悟で臨んだ文学修行でもあった訳だが、ひとまず、江戸から大垣までを歩ききった安堵感が掲句から感じられ、木因との再会…