鬼界ヶ島を立った丹波少将らの一行は、 肥前国 鹿瀬《かせ》の庄《しょう》に着いた。 宰相教盛は使いをやって、 「年内は波が荒く航海も困難であろうから、 年が明けてから、京に帰るがよい」 といわせたので一行はここで新年を迎えることにした。 十一月十二日未明、中宮が産気づかれた。 このうわさで京中はわき立ったが、 御産所の六波羅の池殿《いけどの》には、 法皇が行幸されたのをはじめとして、 関白殿以下、 太政大臣など官職をおびた文武百官一人ももれなく伺候した。 これまでに、女御《にょうご》、 后《きさき》の御産の時に大赦が行なわれたことがあったが、 今度の御産の時も大赦が先例に従って行なわれ、 多く…