宝永2年6月20日。未刻(午後1時)、海部伝右衛門は座敷で鉄砲の筒薬1貫匁ばかりをもろふた(長方形の木箱)に入れ置き、しんざしにかためて(尻刺しか?、戸に棒をかう)伝右衛門は外へ出かける。惣領勘太郎9歳が密かにやって来て、火をつけるとたちまち爆発して顔と胸のあたりをやけどし、障子などはなかば焼けてしまう。しかし外には火は燃え移らなかった。火事だと火消役人などがたくさん集まり、広井のあたりからもやって来る。文左衛門が見廻りに行き、勘太郎が勝手で叫ぶ声が座敷まで聞こえた。22日の夜に終に死んでしまう。目付衆へは延焼の粉が6、7合あったと。近頃、近松幸安向かいに正教寺という一向宗の寺があった。かつて…